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ルージュライン[恋色骨董鑑定譚~ノスタルジック・シュガードール~]

【書下ろし付で文庫化決定!】“目利き”そして“手入れ”の次は、“鑑賞”……!? 見るだけじゃなくて、触れてほしいの――。 恋色骨董鑑定譚~ノスタルジック・シュガードール~

斉河燈

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【お試し読み】恋色骨董鑑定譚~ノスタルジック・シュガードール~

 この古民家に住み始めてから知ったことがある。
 窓枠ほど優秀な額装は他にない、ということだ。
 ひときわ見事なのは、庭に面した掃き出し窓の木の枠だろう。四角いだけで装飾性などまるでないのだけれど、使い込まれて角が丸みを帯び、程よい艶を持っているのがじんわりといい。
 今、そこに嵌め込まれた揺らぎガラス越しに、滲んで見えるのは九月の庭だ。画用紙に緑のインクを何種類も無造作に垂らしたような、平面的な緑の洪水。もともと猫の額ほどしかない坪庭は、夏に枝葉を増した木々にまだ窮屈さを煽られたままなのだ。
 しかしその風景も使い込まれた木枠と一緒に見れば、絵画とは遥かに比べ物にならない奥行きと臨場感がある。まるで風景まで一緒に使い込まれてきたみたいに、深い味わいを感じる。そのせいか、じっと見つめていると、不思議と塀の向こうまで緑の世界が広がっているような気にさせられてしまうから見事なのだった。
 ――わびさびってこういうものかしら。
 しみじみと感じつつ、わたしは藍の絞り染めの浴衣で蒸し暑い廊下をゆく。
 訪ねるのはこの家の主の部屋だ。囲炉裏のある部屋の奥の奥、冷房の効いた薄暗がりにそうっと足を踏み入れると、文机の手前に仰向けで寝そべる人の姿が目に入った。
「有礼(ありのり)さん?」
 呼びかけに返答はない。もうお昼近いというのにいつまで寝るつもりだろう。昨夜は帰宅が0時近かったうえ、明け方までパソコンに向かっていたようだから無理もないけれど……薄い布団を一枚敷いただけで眠るなんて節々が痛くならないのだろうか。
 そうっと近づいて白髪まじりの頭の右にしゃがみ込む。目を凝らすと、灰色の浴衣の胸元はかすかに上下しているのが見える。静かな寝息が、熟睡を証明していた。
(……どうしていつまでもこんなに忙しいのかしら)
 彼――骨董鑑定士を生業とする風流人、津田(つだ)有礼さんが暮らすここに越して来てから早いものでまる八ヶ月。都心から距離のある自然豊かなこの土地は現在、ジェード色の稲穂がたっぷりとなびいている。
 わたし、碓井夏子(うすいなつこ)は先月ついに三十路を迎えた。
 季節が移りゆくごとに、ひとまわり年上の彼との同棲生活にも、ここから職場――明治時代竣工の由緒ある洋館旅館、鐘桜館(しょうおうかん)にマイカーで通うのにも慣れてきた。観光協会で働くのも、昼間だけの業務に従事するのもだ。ついでに彼が仕事に忙殺されて留守がちであることにも慣れた……と言いたいところだけれど、こればっかりは少しも慣れたとは言えないのだった。
 ――せっかくお休みの日が重なったのに。
 もう半日が会話もせずに過ぎ去っていこうとしている。以前はお風呂上がりにゆっくり話す時間もあったのに、最近はそれもすっかりご無沙汰だ。といっても、彼は遠方の仕事から帰ると律儀に何があったか報告してくれるし、わたしの仕事の参考になりそうな話もマメにしてくれる。けれど、だいたいがついでといったふうで、もう何ヶ月もこの調子だから、わたしは最近彼がなにを考えているのかを見失いかけていた。
 元来わかりにくい性質の人だけれど、それにしても……。
(寂しいな)
 胸の内側を細かいやすりでちょっとずつ削られているみたい。このまま削り続けたら、胸に穴が空いて削りカスまではらはらと飛んでいきそう。
 そんなふうに感じてしまうのは、今週に入ってわたしの仕事が少し落ち着いたせいもあるだろう。
 旅館業の繁忙期である先月八月、わたしはお子様連れのお客様を対象にした新しいプランの本格的な実施に忙しかった。夜、暗くなってからLEDのランプを片手に、鐘桜館の仄暗い館内を巡るナイトツアープランだ。冬休みに試験実施したときもそうだったけれど、発案者ゆえわたしが暇に過ごせたわけはなく、そのおかげで夏の間は彼の不在もさほど気にせずにいられたのだと思う。
「……ふあ」
 彼の安らかな寝息を聞いていたら思わずあくびが漏れた。暗がりに入ると睡魔の猛攻にあうのは、夏の間に蓄えた疲れがまだ抜けていないから?
「お邪魔します……」
 小さく言うと、わたしは彼の右隣にもそもそと横になる。少しだけ一緒に眠らせてもらおう。無駄なところのない細い体に寄り添い、右腕にぎゅっと抱きつくと、灰色の浴衣からほんのりと優しい汗の匂いがしてたまらなかった。
 もう、一ヶ月。
 前回素肌で触れ合ったのは一ヶ月も前のことだ。
 いっそこちらから誘ってしまえたらと思っても、日々慌ただしく働く様子を目にしているとそれも躊躇してしまう。わたしも同じく仕事を持つ身だから大変さはわかるし、有礼さんがわたしを気遣ってくれているときもあるだろうと思うと自分本位で行動するなんて到底できそうになかった。
 本当は触れたい。触れられたい。
 もっと話もしたい。なにを考えているのか聞かせてもらいたい。
 どうしたらいいのかな、と切ない気持ちを持て余しながら瞼を閉じたら、左側頭部のあたりで低い囁きが聞こえた。
「ん……、夏子」
 寝起きの掠れ声はそれでも充分に甘くてクラリとさせられる。
「どうした、添い寝でもしてくれるのか……?」
「あ、いえっ。すみません、起こしてしまって」
 なにをやっているのだろう、わたし。休んでいるところを邪魔してしまうなんて。慌てて体を離そうとすると、長い腕が腰にまわってきて動きを阻まれた。
「そろそろ起きようと思っていたところだ。気にしなくていい」
 そう言いながらも、なぜだか有礼さんはわたしを隣に寝かせてしまう。もしかして寝ぼけているのだろうか。しかし眉をひそめた神経質そうな目はそれでもしっかり開いていて、二度寝をするつもりもなさそうだったから、混乱せざるを得なかった。
「あの、起きる気ならどうして横に……もうお昼ですよ?」
「目覚めてはいる。だが、起き上がるのはおまえを少し甘やかしてからだ」
 掠れた語尾に重ねて、力強く肩を抱く長い右腕にどきっとさせられてしまう。何事かと目を丸くしたわたしの頭を、彼は骨張った左手でかき混ぜるように撫で、いい子だと囁いた。
「あの……?」
 これは一体。目をしばたたくわたしに有礼さんは言う。
「労ってるんだよ。このところ、慌ただしくしていて家事をおまえに任せっぱなしだったからな。炊事から掃除、洗濯まで」
「き……気付いていらしたんですか」
 洗濯も掃除も食事の準備も片付けも、さりげなくわたしが済ませておいたこと。少しでも彼のためになればと思ったのだけれど、わかっていてくれたのか。
「あれだけ献身的に尽くされて気付かないわけがないだろう。あとでキャラメルをやる。山ほどだ」
 そう言って形のいい唇で左のこめかみにちゅ、っと音を立てて口づけられて胸がきゅっとした。
 やはり有礼さんは大人だ。四十一歳の年嵩らしい余裕がある。どんなに忙しくてもわたしの働きを見逃さず、きちんと評価してくれる。
「……ありがとうございます。でも、キャラメルならいつも通りみっつで充分ですよ。お気持ちだけいただけたら、それで」
 彼の細い腰に右腕をまわし返し、胸元に額を寄せて俯いたのは頬が熱かったからだ。この腕の中で処女を卒業したのはもう一年近くも前なのに、こんなときの対応にはまだまだ慣れなくて困ってしまう。
 どぎまぎするわたしには気付かない様子で、有礼さんはくすぐったそうにひとつ笑って言った。

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