ルージュライン[Dr.高間の発情診察~仔猫のように抱きしめて~]
WEB掲載分に書き下ろしを加えて文庫化決定! Dr.高間の発情診察~仔猫のように抱きしめて~
草野來
【お試し読み】Dr.高間の発情診察~仔猫のように抱きしめて~
私が初めて見たセックスは、野良猫同士の交尾だった。
あれはたしか、小学校に入学したての春。私たち一家の住んでいた団地の植え込みの手前で、大きなトラ猫が自分よりひと回りは小さい白猫の上に乗っていた。
てっきり、いじめられていると思った。
白猫は首の後ろを噛まれて、つらそうな唸り声を上げて、いかにもやっつけられている感じだったので思わず手を伸ばしたら、ばりっと引っ掻かれた。
それが喧嘩ではなくて交尾だったと分かったのは、それから数ヶ月後のこと。その白猫が子猫をくわえて団地の敷地内で“お引越し”をしている現場に出くわした。子猫たちはどれもこれも白と茶色混じりの毛の色をしていた。
ちょうどひと月前。お付き合いをしていた男性から別れ話を切り出されたとき、なぜか二十年も前に見たあの猫たちを思い出した。昼日中から人目もはばからずにつながって、邪魔者は爪で追い払う、あまりにも動物的なあの姿を。
「それではお先に失礼します」
「はい、えりこ先生、おつかれさまです」
園長先生に今日の給食日誌を提出して、さあ帰ろうというときに雨が降ってきた。
天気予報によると、夕方から夜半にかけて雨からみぞれになるそうなので、折り畳み傘を持ってきてよかった。自転車にも乗ってこなくて正解だった。いつもは自転車通勤だけど、職場であるこの保育園から自宅までは歩いても二十分足らずの距離だ。
……とはいえ、三月上旬のこの季節は、雨のなかを歩くにはまだ寒い。髪を襟足まで短く切ったばかりなので、マフラーを巻いても首がすーすーする。それになにより、ひと気のない薄暗い歩道を黙々と歩いていると、どうしても気持ちが内へ内へと向かってしまう。あのときのことをまた考えそうになってくる。
その人とは、六ヶ月間ほどお付き合いしていた。
それが交際期間の相場として長いのか短いのかは分からない。私はそれ以前に男の人とそうなったことがなかった。手をつなぐことも、キスも、それ以上のことも。なにもかもしたことがなかった。
その人は、そんな私を最初は喜んでくれていたようだった。友人の紹介で引き合わされた最初の頃、『保育園の調理師さんだなんて、子ども好きで料理も上手で、家庭的な方なんですね』と言われて、素直に嬉しかった。
実をいえば、この仕事に就いたいきさつは、大学時代に就職活動で全敗して、就職浪人になるよりはいっそ手に職をつけようと貯金をはたいて専門学校に入り直して、店を持つとかシェフになるとか、そういったことは身の丈に合わないので堅実的な職場を希望して……その結果として保育園の調理師になったわけなのだけど、そういうことは黙っていた。
せっかく自分を気に入ってくれたのだから、敢えて水を差すことはないと思った。それに、二十代後半にもなって“経験”がないということを私が打ち明けても、その人は興ざめするどころか『急ぐ必要はありませんから』と言ってくれた。優しい人だった。いい人だった。
だから、こんな結果に終わったのは全面的に私が悪い。
いくら急ぐ必要はないといっても、男性と付き合っている以上、それを無視するわけにはいかない。自分でも、頭ではちゃんと分かっていた。だけど、身体が分かってくれなかった。彼からすれば、手順を踏んで慣らしていけば大丈夫だと思っていたのかもしれない。でもだめだった。リラックスしてと言われても、力を抜いてと頼まれても、身体が言うことをきいてくれなかった。
試みれば試みるほど、うまくいかなくなっていって、それにつられて関係自体もぎくしゃくしていって――。
『夏目(なつめ)さんと僕はたぶん、縁がなかったんだと思います』
そう言われて、やんわりとフラれる形で終わってしまった。
この一ヶ月間、心が油断するとすぐ、このことを思い出している。そして、あの悩みに行きつく。普通の人にとっては悩みともいえないことかもしれないけれど、私にとっては大きな悩みだ。
動物にもできるセックスが、どうして自分はできないのだろう。
ボスン、と靴の先がなにかに当たった。段ボール箱だ。白いタオルが入っていて、布地の下でもぞもぞと動いているものがある。そっとタオルをめくってみると、小さな子猫がそこにいる。黒と白と茶色の三毛猫。
……見るんじゃなかった。雨のなか、段ボールに入れられてる子猫なんて……見つけたくなかった。ここでなにごともないかのように立ち去ったら……さぞかし後味が悪いだろう。
しゃがみ込んで、こわごわ猫に手を伸ばす。まだ目も開いていない。手のひらにすっぽりと収まるくらいに小さい。細い鳴き声をみゅうみゅう上げて、必死に私の指にしがみついてくる。その力があまりに弱くて、見捨てられなくなってしまった。
マフラーでその子を包むと、この近くにあるはずの動物病院に行き先を変更する。たしか、白衣姿の優しそうなおじいさんが道路に水を撒いているのを、夏に見かけたことがあった。小さなビルの一階で、犬猫専門の病院だったと思うのだけど名前が出てこない。道を尋ねようにもこの辺りに交番はなくて、しかも雨に加えて風まで出てきて、子猫をかばって歩くうちに電柱に額を打ちつけた。
なんだかもう……泣きたい。
風にあおられて役に立たなくなった傘をカバンに突っ込み、猫をしっかと胸に抱え、記憶を頼りに歩き続けるうちに“坂井動物医院”という看板が目に入った。
年季の入った二階建ての小さなビル。待合室にも受付にもだれもいない。今日の診察は終わってしまったのだろうか。
「ごめんください」
返事がない。不安になってもう一度、奥に向かって呼びかける。すると受付スペースの横にある扉が開いて、男の人がぬっと出てきた。
おじいさんじゃない。優しそうな感じでもない。大柄で、鼻の下とあご周りに無精ヒゲを生やして、くっきりとした眉毛に重そうな二重まぶたの、強い目つきの男性だった。短髪が無造作に伸びた感じの、中途半端な長さの髪型。私より十歳くらいは年上だろうか。緑色の半袖の作業着みたいな服を着て、そこに立ったまま見下ろすように私を眺めて……ちょっと怖い。
「どうしました?」
低い声で、尋問するような口調で問われてまごつくと、胸元に入れていた子猫がひょこんと顔を出した。男性の目がそこへ向かって、つい、緊張する。
「捨て猫?」
「はい」
「拾っちゃったの?」
「……すいません」
「べつに謝ることないですよ」
そうなのだけど、この人の外見と声があんまり迫力があるものだから……ただでさえ男性に免疫のない私などは、おどおどしてしまう。
「じゃあ、この子ちょっとお預かりしますね」
マフラーごと私から猫を受け取ると、男の人は診察室へ案内しながらタオルを貸してくれた。
「一応それ、ヒト用だから臭くないですよ」
渡されたタオルで私が髪を拭く間、男性は小さな哺乳びんで子猫に猫用ミルクを飲ませている。ゴム製の乳首に子猫は夢中で吸いついて、一所懸命ミルクを飲む。
「次は排泄ね。よく見てて」
男性は、ぬるま湯で湿らせたガーゼを猫のお尻に当てる。指でとんとんさせると排尿がはじまって、これがとても大切なのだそうだ。猫や犬の赤ちゃんは自力で排泄できないのでお母さんがお尻を舐めてあげるのだけど、母親がいない場合は飼い主がしなければいけない、と。