ルージュライン[私が猫になる日まで]
「お前は俺の猫になる」――傲慢な書き置きから始まるラブロマンス! 私が猫になる日まで
斎王ことり
【お試し読み】私が猫になる日まで
『おまえは俺の猫になる……俺の腕の中で啼け』
ある朝、いつも通りに出社した一ノ瀬丹亜(にあ)の机の上に、そんなメモが張ってあった。
小さなパフュームボトルに、かわいらしい桃色のポストイット。犬用の粗相避けであり、室内の消臭芳香剤にもなるような香りポットの試作品がそろそろ完成すると科学班のほうから昨日連絡があった。もしやこれだろうか。蓋を開けてくんと嗅いでみる。いい香りだ。もう一度大きく胸に吸い込んでみるが、その香りは薔薇系でもなく、オレンジでもなく、ジャスミンでもない。何の香りがベースなのかわからなかったが、どこか懐かしさを感じる甘い香りだ。なんだかとても癒やされる。
その小瓶に原材料名でも記されていないかと見れば、小さなラベルに小さく『メモリー』と書いてある。その文字の下にはもっと小さな文字で別の文字が。『思い出した? 俺の姫君。俺の愛しいチンチラ。なんで猫を飼ってないの? 人に勧めておいて』
「やだ。誰かのいたずら? 意味わからない。まさかこれ書いたの犬飼先輩とか?」
「え? 何か言ったか? それより一ノ瀬。言い忘れてたんだけど、君は今日から猫部開発許可特殊企画部に異動になったから、そのつもりでよろしく」
向かい合わせに並べられている机の反対側。向こうの書棚とパソコンの奥から、犬飼先輩がふいに顔を覗かせて言う。
「猫部……ですか? 私が、今日から猫部開発許可特殊企画部に?」
聞いたこともない部署だ。出社して、ホワイトボードを見てもそんなことは書かれていなかった。今日もいつも通り“犬三昧の日々”だと思っていた丹亜は灰色の回転椅子に座りかけていたから驚いて立ち上がる。
「来週ならともかく、今日からなんて急すぎます。本当に今日ですか? 犬飼先輩」
「そう。先週の金曜日に発令になって、俺は出張に行っていたから君に伝達が遅れたんだ。済まないな。犬部から猫部っていうのも珍しい異動だけど。最近上の気まぐれが激しいから。この時期の異動も珍しいし」
スーツのポケットから豆柴のミニマスコットを覗かせた、イケメン上司が破顔する。
「先代の社長が亡くなってから、海外に勉強に行っていた若社長に代替わりしただろう? あれから色々ばたばたとしてるようだね。“猫部開発許可特殊企画部”は新商品の発売の決定を一任される開発部トップらしいぞ。昇給額は知らないが結構な昇進じゃないか。まあ、同じフロアだし、面倒なら机ごと移動してもかまわないから」
犬飼上司は親指をくいっと立てて、向こうの戸口を指してウインクした。
白い扉の向こうには、通称“ぬこ部”とも呼ばれている猫部があるのだ。
「ああ、この書類にサインしておけって言われてたんだ。ここのところに、ね」
そうして一枚の部署異動の辞令を渡されて、一ノ瀬丹亜は入社以来3年間務めていたお犬様へのご奉仕を解かれることとなった。
犬と人が共通で楽しめ、糞尿忌避剤にもなるフレグランス開発業務から途中離脱せざるを得ないのが残念だったが、“お上”の決定は絶対である。
隣の部署で誰かが辞めたという話は聞いていないから、産休とか、育児休暇で一時的に抜ける人が出たのだろうか。猫のほうがこの狭小住宅のご時世を反映して人気のペットとなり、業務が大変になったのかもしれないし、若社長の発案の下、何か新しいプロジェクトが発動するのかもしれない。
海外修業から帰国した若社長になってから、本社でも縮小部門ができたり販売経路が変わったり変動が激しくなったとは聞いていた。
(観葉植物レンタル部門も縮小されたし、ペット部門も終了の前触れじゃないといいけど。若社長はアメリカで事業経営を学んできたやり手とも聞いているけれど、そもそもあまり動物が好きではないらしいし。やだ、そうだったらどうしよう)
新しい社長は就任式で一度だけ遠目で見たが、背が高くまだかなり若く見えた。
先代はペット事業での利益より、自然保護や動物愛護の精神優先で、生前数人の息子の誰に会社を譲るか悩んでいると冗談交じりに言っていた。
丹亜は先代社長とは入社以前に出会っていて、ペットには並々ならぬ愛情を抱くようになっていた。
彼氏とのデートより生き物を愛し、ペットショップでアルバイトもした。異動部署に不安はあるが、昇級したら家のシバと、陸亀の陸とコンゴウインコの姫の生活空間をたっぷり取れる戸建てに引っ越せるかもという願望がむくむくと湧いてくる。
犬部の開発チームは、丹亜以外男性ばかり5人だった。さばさばしていて愉しかったが、猫部は女性しかいなかったはずだ。
「猫好き女子にいじめられないようにね。犬の匂いがすると『シャーッ』てされるよ」
「ああ丹亜、会議があるから052号室に来るようにって連絡があったから、そっちに行って。その前に地下の猫カフェに行って猫の匂いを付けたほうがいいかもよ」
先輩たちの、爪を立てるようなゼスチャーと素敵な送り言葉と荷物を胸に、丹亜は廊下を突き当たった所にある白い扉を開ける。
「あの……失礼します。このたび人事異動になった一ノ瀬丹亜……です」
恐る恐る部屋を覗き込む。だがもう9時半過ぎだというのに、052号室は無人だった。
初めて入るその部屋は、企画部というより高級な応接室の仕様だった。白いブラインドも洗練されたものだったし、見栄えのする西洋絵画まで飾られている。今までここは猫部の資料室として使われているはずだと思っていたが、入って見れば、役員室のように豪華だ。奥には応接用の革張りソファとコーヒーテーブルが置かれた絨毯スペース。手前の机の一つは社の試作中グッズで埋まり、一つは最新式のパソコンが載り、窓際に離れて置かれている。
壁際にはガラスのはめ込まれた白いキャビネットが並んでいて、貴重な美術品が並べられている。
中に踏み込んだその瞬間。すぐ傍らで「にゃあ、にゃあ」猫の声が響いて、丹亜は短い悲鳴を上げて飛び上がった。
その拍子に、必需品を詰め込んできたクラフトボックスを取り落とし、床上に散らばったバインダーや文具類を拾い上げようとして慌ててしゃがみ込む。その動作でお尻に何かが触れて、突き飛ばされるような体勢になった丹亜は、ここで二度目の悲鳴を上げた。
「きゃ!」
「──おい。危ないな。大丈夫か」
まさか、そこに人が立っていたなどと思いもしなかった。
がっしりとした上背のある男性のスーツが目に入った。ネクタイに犬の刺繍もない。かといって猫の柄でもない。シックなストライプの柄だ。シャツの襟もプレスされて美しい。なぜかそんなものだけが目についた丹亜だったが、お尻がはじき飛ばされた衝撃のまま、四つんばいの姿勢になっている。手をついたせいで丹亜の荷物はより広範囲に散らばって、男性の前にかわいらしい犬のグッズが晒されていた。
「ああ……私……」
拾い上げようとした手に、しっかりとした骨格を感じさせながらも憧れるほど綺麗な指先をした男性の手が重なった。
「あ……」
思わず、その手を引っ込めようとした。だが男性は丹亜の手を掴んだまま腰を折るようにしてしゃがみ込む。
「いいんだ。俺がやるから」
押しつけがましくはない口調なのに、どこか相手を従わせる低い声。
ふわっといい香りがした。いつか嗅いだことのある香り。さらりと音を立てて栗色の前髪が落ちる。