ルージュライン[誘惑テイスティング]
「このかわいく熟れた果実を味わえるのは俺だけにしてください」年上の凄腕料理人に、甘く“調理”されて“味見”され、カラダはどこまでも潤って……! 誘惑テイスティング とろける蜜果の初恋仕立て
朝来みゆか
【お試し読み】誘惑テイスティング
「いただきます」
胸の前で手を合わせて目の前に並んだ料理を拝む。
楕円形のテーブルを囲む度、家族そろって食事できる幸せを感じる。
夜はカーテンを閉めているけれど、庭を一望できる位置に父が座り、その右隣に父方の祖母、続いて母と美鈴(みすず)が並ぶ。ここまでが堀江(ほりえ)家の面々で、間を空けて料理人の高槻和成(たかつき・かずなり)が座る。
「高槻さん。このお卵、とてもいいお味ね。目でも味わえて楽しいわ」
箸使いも優雅な母は、小皿を綺麗にして微笑んだ。
「ありがとうございます」
和成は落ち着いた声音で応える。
「ね、お義母さんにも食べやすいわね」
祖母は口をもぐもぐさせている。
今日の卵焼きは、小葱が入ったものと明太子が入ったものの二種類で、美鈴の好物だ。ふわっと柔らかい中に食感の異なる具材がアクセントを生む。塩辛さと甘さのバランスがちょうどよく、しみじみおいしい。
目が合った。もっと食べますか、と和成が視線で訊ねてくる。美鈴はうなずいて皿を差し出す。
こんな日々がずっと続けばいい。穏やかに初恋を育み、自然のなりゆきで和成とペアになるのを夢見ている。
直線的な眉にアーモンド形の目、親しみやすさを感じさせる少し大きめの口。最も魅力的なのは彼の手だ。親がいる前で隣の和成ばかりをじっと見つめるわけにいかないから、常に視界の隅に入れつつ、焦点は別の方向に結ぶ。
出会いから十五年。家に通ってくるようになって一ヶ月。単純接触効果かもしれないけれど、こんなに好きになるなんて。
「ポタージュスープのこの色は何かしら?」
「ビーツとポロ葱、人参、ジャガイモ、セロリを使用しました」
「和洋折衷ですばらしいな」
一ヶ月前までアフリカ某国で大使を務めていた父は、高齢の親との生活を優先したいという理由で外交の最前線から退いた。
父の帰国よりも、和成が一緒に帰ってきたことが美鈴にはとても嬉しかった。
高槻親子は二代にわたる公邸料理人として、美鈴の父と共に三つの赴任地を回って働いてきた。父が大使の任期を終えた後も、和成は堀江家の台所を預かり、食材の調達も引き受けている。毎日通ってきては昼食と夕食を作ってくれるのだ。君も一緒にテーブルにつきなさいと父が命じたため、堀江家の食事に同席している。
「おほめにあずかり光栄です」
「でも本当はフレンチを究めたいんじゃなかったか? 一般家庭の食事を作っていても腕がなまるだろう」
「いえ、そんな」
何を言い出すんだか。
一人娘の恋路に「迂回路」の標識を立てるのはやめてくださいお父様。変に水を向けて、彼がその気になったらどうするの。
美鈴の焦りと無言の抗議に気づかない父は続けた。
「もちろん私たちは君の料理に満足しているし、大変助かっているが、もし他にやりたいことがあるなら、無理しなくていい。父君のように故郷に錦を飾るのも、一つの道だろう」
「堀江様には感謝しています。大変勉強にもなっていますし。ただ一つ考えていることがございまして……ちょうどご相談させていただこうと思っていました」
姿勢を正した和成を見て、嫌な予感がした。
「実は先輩から誘いを受けております。近々、渡仏してもう一度、修業しないかと」
トフツと聞いてもすぐには脳内で漢字変換できなかった。
つまり日本を離れてフランスに行ってしまうんだと理解したときには、会話は先に進んでいた。
なるほどますます腕に磨きをかけるんだね、楽しみだ……時期はまだ調整中で――男たちのやり取りが美鈴の頭上を滑ってゆく。
渡仏宣言の夕食後、和成を追ってキッチンへ来た。思考がまとまらないまま、ふらふらと足が向いてしまった。
フランスか、と思う。美食の国。自由の国。歴史、文化、誇り。トリコロール。聖女ジャンヌ・ダルク。
遠いには遠いけれど、父たちが前任地のアフリカ某国から日本に戻るときにパリを経由して飛行機を乗り継いだのを思えば、めちゃくちゃ遠いわけでもない。
外交官の娘と、料理人の息子として年に一回か二回、顔を合わせてきた。淡い恋心が生まれたのはいつだったか。また会おうね、と交わした約束は次の年に必ず果たされた。
現実的で行動派だと自負している美鈴も、恋に関しては慎重で、夢見がちな少女のままだ。
堀江家と無縁になった和成を想像すると、すうっと胸が冷えた。彼と父の雇用関係が切れてしまうのが心細い。
「どうしました? 甘いものでもご用意しましょうか」
白いトックをかぶった和成が調理台をふく手を止める。専用スリッパに履き替え、キッチンに一歩踏み込んだまま棒立ちする美鈴を見て、まだ満腹ではないのだと思ったらしい。
「ううん、甘いものはいらない」
「ダイエットですか」
「そういうんじゃないけど」
一回りも年の離れた和成と今後も親しくつき合ってゆくには、どうすればいいのだろう。和成が働くレストランに美鈴が上客として通い詰めるか、美鈴も同じく料理の道に入るくらいしか思いつかない。
キッチンは、我が家の一部でありながら異空間めいている。業務用の大きな冷蔵庫、滑り止め加工の施されたタイル敷きの床。銀色の調理台は畳を横に二枚並べたくらいの長さがある。父の帰国に合わせてリフォームした家は、どこもかしこもぴかぴかだ。
手持ち無沙汰を解消するためにスポンジをつかみ、蛇口をひねった。広いシンクに落ちる水音は意外に小さく、心のもやもやを洗い流すには勢いが足りない。
「お手伝いいただかなくて大丈夫ですよ」
「でも多いし。こんなに洗うの大変でしょ」
「高性能な食器洗浄機がありますし。お気持ちだけで」
「あ、私がいると邪魔?」
「いいえ、そういう意味ではないのですが。これは俺の仕事ですから」
美鈴が雇用主の娘だからか、彼はいつも礼儀をわきまえた態度で接してくる。
「……俺が片づけている間、美鈴さんがお喋りの相手をしてくださるならよろしいかと」
「じゃ、そうしようかな」
許可を得たのを幸い、シャツの袖をまくった和成を遠慮なく眺める。目の保養だ。顔は優男の類なのに、異国の地で数々の設宴の準備を担ってきた腕はたくましく筋張っている。日に焼けた肌の色が落ち着くのは冬になってからだろうか。
器用な手のどこかに火傷の痕を見つけると、胸が締めつけられる。熱かっただろう、痛かっただろう。でも料理人の証だ。そう思ってまた探してしまう。甘苦しいときめきは癖になる。
「フランス、いつ行くの?」
「未定ですね。年内になるか年明けになるか」
「私も留学しようかな」
「目的のない留学はお金と時間をどぶに捨てて終わりますよ」
「ちょっと言ってみただけなのに……」
「口にした時点で、言葉は未来を変える力を持ちます。迂闊なことはおっしゃらない方がよろしいかと」
「高槻さん、意外と迷信家なんだね。真面目っていうか」
馬鹿にしたつもりはなかった。でも、和成の瞳がわずかに曇り、彼の中でチャンネルが変わるのがわかった。
「毎日、夕食の時間にはご帰宅なさる美鈴さんの方が真面目だと思いますよ。堀江様もご安心でしょう」
和成と一緒に夕食のテーブルにつくのが楽しみでまっすぐ帰るのだと――伝えるべきかもしれない。でも言えない。またタイミングを失ってしまった。
世の中の恋人たちは皆が皆、告白のプロセスを経て恋仲になったわけではないと思う。ただ居心地のいい空気を維持して、気づけば数十年経っていた、そんな関係もあるはずで、美鈴は今すぐ和成と五十年後にワープして、縁側で猫を撫でながらお茶をすすりたい。