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ルージュライン[潮風はいじわるな恋の運命]

電子書籍化!「今、言う。俺は好きだよ。なぎのこと」偶然の再会とニセモノの関係の先に待っている恋は、きっと運命☆ 潮風はいじわるな恋の運命

朝来みゆか

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【お試し読み】潮風はいじわるな恋の運命

 どこかで見た顔だけど、思い出せない。臼井(うすい)なぎさは落ち着かない気分で、隣席の男をうかがった。
 男は足元に布地のバッグを置き、チケットと座席の背の部分に示されている番号を照合し、はおっていたパーカーを脱いだ。
 誰だろう。どこで出会ったんだろう。
 普段、なぎさはヨガインストラクターとして、専門スタジオやフィットネスクラブでレッスンの補助を担当している。習いにくるのは女性がほとんどだ。そもそも仕事で関わった相手ならば忘れない自信がある。
 だとすれば、プライベートだろうか。ジャンルを問わず音楽を聴きに出かけるのが、ここ数年の休日の過ごし方になっている。
 きっと前にも、ミュージックホールやライブハウスですれ違ったに違いない。そう自分に言い聞かせ、ざわついた心をなだめた。
 今日は海外でも活躍する指揮者、新垣美波(にいがき・みなみ)のコンサートを楽しみにしてきたのだ。S席のチケットは、昨日迎えたばかりの誕生日を自ら祝うつもりで用意した。
「春のコンサートにご来場いただき、誠にありがとうございます。間もなく開演いたします。携帯電話の電源が切られているかお確かめください」
 客席が暗くなり、誰かの咳払いが響くほどに静まる。


「ただいまから十五分間の休憩とさせていただきます」
 客席の千五百人の視線を一身に集め、オーケストラの数十人を引っ張る彼女の指揮はすばらしかった。
 入場時に受け取ったチラシの束から、なぎさはアンケート用紙を探した。
 鞄を下敷き代わりに使い、ペンを走らせる。賞賛の言葉を書き連ねた後、鞄を床に下ろそうとした。鞄につけたバッグチャームが椅子の肘かけに引っかかる。左隣からすっと手が伸びてきて、絡んだチャームをほどいた。
「……ありがとうございます」
 初めて男と目が合った。髪の色は明るく、瞳には小さな光が宿っている。
 古い記憶に思い当たった。小学校時代、同じ教室にいた男の子かもしれない。あの頃は短く切りそろえた黒髪だったけれど。
 話しかけようとしたとき、アナウンスが流れた。
「間もなく第二部を開演いたします」
 二十年前の記憶を掘り起こす。
 幼い横顔は脳裏に浮かぶのに、名前が出てこない。
 なぎさのもどかしさとは裏腹に、演奏は順調に進み、いつの間にか最後の曲に移っていた。
 晴れやかなメロディの曲だった。これまでの演目はチャイコフスキーとショスタコーヴィチで重々しかった。戦車の行軍を見送って肩がこった後に自転車レースを見学する気分で、すっかり心地よくなった。
 なぎさはペンを握り、アンケートの余白に『最後の曲がよかった!』と記入した。音符マークもつけ加える。暗がりの中、パンフレットをめくれば、新垣流太(りゅうた)……日本人作曲家の手による交響曲らしい。
 そのとき、はっきり思い出した。江藤(えとう)流太。年度の初めに転校してきて、次の学年に上がる前にまた転校していった、一年間だけクラスメートだった男の子。
 オーケストラがアンコールに応え、終演後のざわめきがホールを満たす。
 隣の男が席を立った。
 金髪に近い頭を見失わないよう、なぎさもあわてて後を追う。タイダイ染めのロングスカートが座席にこすれて静電気でまとわりついた。
「江藤くん」
 ホールからロビーに出たところで、男が足を止めた。
「江藤くんだよね」
 名前が出てくれば、思い出をたぐるのは難しくない。
 二人で日直を務めたこと。
 クラスの全員を招いたなぎさの誕生会に来てくれなかったこと。今から思えば、また転校することが決まっていたから遠慮したのかもしれない。でも、「友達百人計画」を遂行中だった幼いなぎさは残念な思いをしたのだ。
「突然声かけてごめんね。今こっちに住んでるの? 二十年ぶりだから、憶えてないかな? 私、臼井なぎさ。ほら、第二小で一緒だった」
 男の目には疑問符も感嘆符も浮かばない。
 反応の薄さに、もしや他人の空似かな、と不安になる。江藤くんではないのだろうか。
 男はなぎさの手の中の二つ折りの紙に目をやり、静かに言った。
「アンケート、熱心に書いてたね」
 こちらのことなど気にしていないようで、実はしっかり見られていたようだ。なぎさはおずおずと答える。
「すばらしい指揮だったから」
「あのさ」
 男が何か言いかけた。そのとき、ダークスーツの男性が近寄ってきた。
「流太さん、お花ですけど、配送の手配しておきましょうか」
 やっぱり江藤くんだ、となぎさは嬉しくなる。感情をあらわにしないクールなところも変わっていない。
「お願いします」
 流太が答えると、スーツの男性は承知しました、と言って階下へ向かった。コンサートの運営スタッフのようだ。
 わずかな違和感が胸に残る。ロビーに飾られた花の香りを吸い込み、訊ねた。
「江藤くん、今、何やってるの?」
「ごめん。その名前で呼ばれたのが久々すぎて、動揺してた。新垣美波の弟やってる」
「え?」
「親の再婚で、苗字変わったんだ」
「ええ?」
 何でもない声で言う流太に、なぎさは戸惑った。
 美波と流太が姉弟、ということは――。
 鞄からパンフレットを取り出して確かめる。新垣流太。第二部の最後に披露された交響曲を作った人。つまり作曲家。
 わあああと叫びたいのをこらえた。渇いた唇を結んで、開く。
「作曲家になったんだ? すごいね」
 流太は表情を変えず、落ちている紙を拾った。なぎさの手に押しつける。
 パンフレットにはさんでおいたチラシを落としてしまったらしい。
「あ、ありがとう」
 頭を下げると、流太の靴が目に入った。淡いベージュ色のスエードシューズで、かかとの部分は温かみのあるオレンジ色だ。メンズファッションに疎いなぎさでも、上質な靴だとわかった。
「姉の楽屋行くけど、一緒に来る?」
「え? いいの?」
「興味あるなら、だけど」
 流太はひらりと翼を広げる鳥のようにパーカーをはおり、バッグを肩にかけ直した。
 思いがけない再会と、信じられない誘い。コンサートを楽しんだ上、楽屋訪問もできるなんて、チケットを用意したときには想像もしていなかった。
「もちろん興味はあるよ。……でも」
 高揚した気分に影が差す。楽屋を訪ねたとして、新垣美波は握手やサインに応じてくれるのだろうか。うっとうしがられないだろうか。
「こんな普段着でお邪魔して大丈夫かな?」
「俺も普段着だよ?」
 あらためて流太の服を見る。赤とグレーの細かなチェック柄のシャツにパーカーを重ね、ブラックデニムという軽装だ。確かにめかし込んではいないけれど。
「江藤くんと私じゃ立場が違うし……」
「気にしなくていいよ」
 流太が薄く笑った。なぎさはためらいを胸にしまい、ではお言葉に甘えて、と答えた。
 楽屋口らしい扉の前で、流太が警備員に関係者パスを見せる。扉の先には、コンクリートの通路が続いていた。
 流太の歩く速度が少しゆっくりになった。
「一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「楽屋に行ったら、俺の彼女のふりをしてほしい」
 単なる旧知の友人を連れていくにはそぐわない場なのだろう。
 流太に気まずい思いはさせたくない。なぎさはうなずいた。
「わかった。訊かれたら、そう答えるね」
「助かる」
 流太がノックして開けた扉の内側には、パイプ椅子に座布団を載せて座った美波がいた。アイボリー色のパンツスーツ姿だ。なぎさを見て、首をかしげる。

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