ルージュライン[恋の傷さえ彼の罠]
2014年新人賞受賞作★「お前がキスや想像だけでぐしょぐしょになるなんて、俺以外知らないよな?」傲慢なほどイイ男に体も心も囚われて乱れて…! 恋の傷さえ彼の罠
由糸子
【お試し読み】恋の傷さえ彼の罠
初めて入った社長室は、だだっ広く、乾いた空気で満たされていた。そんな中では、デスクの横に置かれた観葉植物も、心なしか苦しげだ。どうか水をください、水、水……と喘いでいる。
そして私も苦しい。早く、この場から逃げ出さないと。やっかいなことを押しつけられる前に。
「すまないね。急に呼び出してしまって」
社長はソファに腰掛けた私の前に座ると、小さくため息をついた。恐縮して体をちぢこめている姿は、日本有数のエンジニアリング会社「東亜エンジニアリング」の社長とは思えない。
「あの、社長。本日はどのようなご用件でしょうか?」
私はとにかく、さっさと話を終わらせたかった。社長が言いたいことはわかっているんだから。
どうせ娘さんのことでしょう? うちの部署に配属されると噂の、「巻き髪命!」って感じの、社長のお嬢さんのことに決まってる。
「この春、私の娘の理央が我が社に入社してね。その子が、本日付けで君のいるLNGプロジェクト部に配属されることになっている」
「はい、それは存じあげています。それに何か問題でもあるのですか?」
「ああ。理央が、どうも惚れっぽいタイプなんだよ。わが娘の恥を晒すようだが、女子大に通っている間も、いろんな男と浮き名を流していたほどでね……」
娘を心配する親の表情と、経営者の表情。その二つが、社長の四角い顔の上で交じり合っていた。
社長という職業も大変だ。娘のために、私のような入社五年目の社員にまで恥を晒さなくてはならない。同情はするものの、それ以上の感情や関係は持ちたくはない。
だけどきっと、無理だろうな。社長の口からは、予想済みの言葉がこぼれ落ちてきてるもの。
「だから、葉山くん。君に理央のお目付役を頼みたいんだ! 君が理央の傍にいて、理央が我が社の男性社員と、その……あの……」
「恋愛関係にならないようにしてほしい、ということですか?」
「そのとおりだ、葉山くん! 社長の娘であることを忘れて、理央に社内で余計なことをされるのは、困るのでね」
余計なこと、ねぇ……。
果たして恋愛が、余計なことに当たるのかな?
ふと思ったものの、その考えを振り払った。
そんなことを思うなんて、私らしくないもの。社長だって、私を堅物女だと思っているから、お嬢さんのお目付役にしようと考えたんだろうし。
お嬢さんの配属先にいる、年齢の近い同性の先輩は私しかいない。しかもここ数年、男の噂を聞かない先輩なら、なおさら娘の見張り番にぴったりだと思ったのだろう。
私が社長だったとしても、私を選ぶ。それだけ私は、学級委員みたいなキャラだってこと。
私は返事をせずに、テーブルに出された紅茶を啜ってみた。香りはいいが、あまり味は感じない。それはきっと、今の複雑な気持ちのせいだろう。
「お嬢さんのことですが……大丈夫じゃないでしょうか?」
赤い液体を何度か喉に通したあと、私は社長に言った。
「お嬢さんも社会人になられたんですし、お父様である社長に迷惑をかけようとは思わないのではないですか?」
「いや、我が子ながら信用ならんのだよ、あの娘は!」
「でも、うちの部署には今、お嬢さんが好きになりそうなタイプの、若い男性社員なんていませんから。既婚者も多いですし、お嬢さんが恋愛するような雰囲気ではないと思うんですけど……」
私の所属するLNGプロジェクト部にいる、一人の部長と六人の課長、それに十五人いる係長は、すべて既婚者だ。それに独身の男性社員たちだって、「イケメン」とか「カッコいい」などと呼べば、閻魔様に舌を抜かれそうなレベルだもの。
「確かにそうだな。LNGプロジェクト部は、機密事項を扱うことも多いから、実直な人柄の社員が多いとも聞いている」
「そうですよ。ですから、ご心配には及ばないかと……」
そこまで言って、ふと思い出したのだ。かつて同じ部署に、ご心配に及ぶ原因となりそうな社員がいたことを。
でも、そんな彼だって、今は海外勤務中だ。ここにいるわけじゃない。だから私の心の傷も、体の奥の疼きも、すべて眠ったままだ。
だからきっと、大丈夫。社長のお嬢さんも私も、あの男に惑わされることはない。絶対に。
「何にせよ、仕事の面でも、君に理央の世話を頼みたいんだ。悪い虫がつかないようにすることは、その次でかまわない。よろしく頼むよ」
社長が頭を下げ、頭皮が透けたつむじが見えた。
仕方ない。ここまで頼まれたら、どうしようもないもの。
これで社長の気が治まるならば、と私は結局、社長の娘さんのお世話役を引き受けてしまった。だけど、これが間違いだった。
このときの私は、どうして気づかなかったのだろう。あの最低男が帰国していたことに。
*
「塔子さーん。これからどこに行くんですかぁ?」
四角張った世界のオフィスに、真ん丸な声が響いて、私の背中に当たる。続けて、タタタッ、と漫画のような音を立てて、理央ちゃんは私の後ろをついてきた。
社長令嬢である彼女がこの部署にやって来て、すでに三日目。つまり、私のお世話役生活も三日目になっている。
「葉山ちゃん、今日もお嬢さんのお世話か? がんばれよ!」
三つ先輩の香田さんが、椅子を回転させて声を掛ける。私が返事をする前に、理央ちゃんが微笑んで手を振っていた。
「はーい! お世話されちゃってまーす! がんばりまーす!」
理央ちゃんの桃色に輝く頬に照らされて、香田さんの口元も一気に緩んだ。すると二人の間に、恋愛に似た雰囲気がほのかに発生してしまう。
私はそれを蹴散らそうと、鋭い視線を向けた。それに気づいた香田さんは、気まずそうに肩を竦めた。
まったく、油断も隙もないんだから! この三日間、こんなことばかりなんだもの!
自分の娘に悪い虫がつくのでは、と社長は心配していたけれど、当の彼女は、悪い虫など気にする様子もない。
というよりも、彼女自身が悪い虫を呼び寄せているんだ。ふわふわとした巻き髪を揺らし、甘い匂いをオフィスじゅうに漂わせ、虫たちが群がってくるのを待っている。
「パパったら、変な男に引っかからないようにって、私を小学校からずーっと女子校に入れたんです。それって逆効果なんですよね。男の人と触れ合っていない方が、かえって男の人に興味を持っちゃいますもん」
初めて会った日に、理央ちゃんはそう言って笑った。屈託のない様子を見て、若いなぁ、とうっかり思ってしまった。
彼女は二二歳で、私は二七歳。五歳の差が、こんなにも大きいとは思わなかった。
肌のハリとツヤ、無邪気な表情、世の中の悪意を知らない素直さ。どれもこれも、彼女ぐらいの年齢だった頃には、私にもあったものだ。でも今では、跡形もなく消え去っている。
世間の荒波にもまれて、摩耗してしまったのか。それとも二年前に、あいつに奪われてしまったのか……。
あー、いやだいやだ。ここ最近、あいつのことを思い出すことが多い。
たとえ記憶の中だったとしても、会いたくない男なのに。頭の中のDeleteボタンを何度も押し、私は必死で一弥の顔を消した。
奥行きのあるLNGプロジェクト部の中を一直線に進めば、突き当たりにある書類の棚に着く。足を止め、背後の理央ちゃんも立ち止まったことを確認すると、私は首だけで振り返った。