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ブルーライン[恋愛転生]

表紙&口絵イラストつきで電子書籍化! 恋愛転生

柴田ひなこ

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【お試し読み】恋愛転生

「あ、降ってきた」
 その声に、桐生和彦(きりゅう かずひこ)は持っていたジョッキをテーブルに置いた。いつの間にか空は灰色の雲に覆われている。足元に敷かれたレンガがぽつぽつと色を変えていく。
〈株式会社トリックススポーツ〉の納涼ビアパーティーは、シティホテルの一階にあるスポーツバーのテラスで開かれている。店内の大画面液晶が映し出しているのはプロ野球のオールスター第三戦。すでに終盤らしい。
 ドーム戦は天候に左右されないからまだいい。だがここには屋根がないのだ。パーティーのお開きまで残り二十分。それまでに雨足はどうなるだろうか。
 桐生は円卓のちょうど真向かいに座っている長身の男をちらりと見た。
 男の両脇には総務部の女子社員がべったりと寄り添っている。二人とも、内輪で計画している二次会に男を誘っているようだ。
 自分にもああやって女子社員から誘われていた時期があった。もうずいぶん前のことのような気がする。桐生は小さな溜め息をついた。
 誘いが途絶えたのは三年前、結婚指輪を嵌めて出勤するようになってからだった。一年半前に離婚して独身に戻ったが、三十路を迎えた今でもなぜか途絶えたままだ。
 だからといって目の前の男に嫉妬したりはしない。こいつが女子社員からの誘いを断ることはわかっている。
 ――先輩、俺とつき合って。
 今から一年前、桐生はこの男に告白された。
 羞恥にうろたえ、まともな返事を避けた桐生に、そのとき男は恐ろしいことをさらりと言ってのけた。
 ――じゃあ俺、いつまでも待ちますんで。


 雨はやがて本降りになった。
 宴会が終わると桐生は同僚に紛れ、急ぎ足でホテルのエントランスに向かった。ところがそのわずかな間に雨足はひどくなり、すぐにバケツをひっくり返したような豪雨になった。
 駅まではどれだけ急いでも歩いて十分はかかる。それなのに、周りには一台のタクシーもない。
「あーあ、タクシーなくなっちゃいましたね」
 その声に振り向けば、一人の同僚が戸外を見つめていた。友成聖士(ともなり さとし)、桐生の真向かいでさんざん女子社員からの誘いを受けていた男だ。
 それほど厚みはないが均整のとれた体躯の二十七歳。桐生も人並みではあるが、百八十三センチの男に背後から寄り添われるとやはり気後れする。
 声をかけられることは予想していた。だがそのとおりに事が運ぶとさすがにうろたえた。
「二次会は中止になったのか?」
「なんですか? それ」
「さっき誘われてたろ」
「えー先輩、意地悪だなぁ。俺が乗るわけないでしょ」
 友成がつまらない冗談はやめてくれと言わんばかりに唇を尖らせる。綺麗な二重瞼の双眸が、桐生を軽くねめつける。
「じゃ、どうすんだ?」
「とりあえず駅まで濡れて行きますか?」
 一緒に帰ることがあたりまえのように訊ねてくる友成の腕が桐生の肩に触れた。上着のボタンを嵌め、すでに濡れる気満々といった風情だ。
「そうだな、行くか」
 桐生はジャケットの袖に腕を通すと、回転ドアをくぐり、降りしきる雨の中に飛び込んだ。
「今日のビール、ちょっとぬるくなかったですか? 俺、キンキンに冷えたのが好きなんでちょっとがっかりでした」
 友成が言った。早足のせいか声がうわずっている。桐生は苦笑した。
「そりゃおまえの体温が高いからだろ。ホント、日本中の主婦がおまえみたいな基礎代謝だったら……」
「〝バーンレッグ〟が売れなくなります」
「それは困るな」
 バーンレッグは体脂肪の燃焼を目的としたアンダーウェアだ。ターゲットはスポーツ選手ではなく主に一般女性。テレビショッピングへの出演枠を確保できたおかげで、今も順調に売り上げを伸ばしている。桐生が開発部に異動してから最初に手掛けた製品だ。
 空から降り注ぐ雨が足元で小川を作り始めた。それを跳ね散らかしながら駅に向かって五分ほど歩いたころだった。桐生はふいに立ち止まった。
「友成、やっぱり雨宿りしよう」
「先輩?」
「いいから、こっちだ」
 駅とは反対方向へと歩き出す。
「えっ、待ってくださいよ」
 友成は驚きの声を上げ、それでも素直に桐生の後ろを追いかけてきた。長身の二十七歳が繰り出す歩みは桐生のそれよりも速い。あっという間に肩を並べられる。
「どうしたんですか? 駅あっちですよ」
 桐生は片顔を引き攣らせて笑った。そんなことはわかっているが、今は引き返す理由を説明する心の余裕はない。
 嫌でも帰宅できなくなる状況を作りたいのだ。そうすれば自分も決心がつく。行き先が孤島でも洋上でも、ホテルの部屋でもいい。たどり着けばなんとかなる。
 ところが目的地が思うように定まらず、桐生はだんだんと不安になってきた。
 雨宿りなら最寄りの駅でもできる。通りには数多のカフェやコンビニもある。それなのにひたすらずぶ濡れになりながら、特に急ぐでもなく歩き回る自分を、友成は頭がおかしいと思ってやしないだろうか。
「あ、このあたりって……ね、先輩」
 自分の姑息さと闘っている桐生とは対照的に、友成の声は明るい。
「ん?」
「この近くに中華まんの店がありましたよね。ちょっと寄っていいですか」
「ああ、いいぞ」
 二つ目の角を右に曲がる。通りのつきあたり、湯気の上がる大きなセイロを覆うように、ランプに照らされた赤い幌がぽっかり浮かんでいる。
「俺のぶんも買ってくれ」
 桐生が千円札を差し出すと、友成は満面の笑みを浮かべてそれを受け取った。
「じゃ、ちょっと行ってきます。先輩はそこの軒下にでも入っててください」
 桐生は「ああ」とだけ返事をして、食料の調達に向かう後輩の背中を見送った。
「こんばんは」
 そのとき背後から声がした。それが自分に向けられたという自覚もなく、桐生は振り返った。
 薄暗い路地の隅、シャッターの下りた店の軒下に一脚の椅子が置かれている。
 そこには男が座っていた。顔立ちは外国人のように見えるがどうやら違うらしい。
「なんですか」
「向こうに行った男性、あなたの犬でしたよね」
「犬?」
 犬という言葉は、必ずしも可愛らしい動物を意味しているとは限らない。
 桐生は近づいて男の顔を覗き込んだ。童話に出てくるイメージ通りの魔女をそのまま男にしたような細面。様相は易者のようだ。古着と思しき作務衣と頭巾。かなり色落ちしている。
 胡散臭い野郎だ。桐生は訊ねた。
「どういう意味ですか」
「あの男性は、あなたが前世で飼っていた犬です。お忘れですか」
「お忘れもなにも初耳ですよ。あんた人を勝手に犬呼ばわりして、それで金取ろうっていうんですか」
 ついていけない。桐生はムッとして踵を返そうとした。
 だがそこへ友成が紙袋を抱えて戻ってきた。パンパンに膨らんだそれが上着の胸に押し込まれている。
「先輩どうしたんですか? 占い? 好きですか、こういうの」
「好きじゃない! この人がおまえのことを犬、犬って言うから……」
「そうです。あなたがたは前世でも一緒でした。記憶にありませんか」
 言葉を口中で咀嚼してから声にしたような、のっぺりとした話し方が耳障りだ。桐生はムキになって作務衣の男を睨みつけた。
「記憶なんかあるわけないだろう。なにいい加減なこと――」
「先輩待って」
 友成がそこを押し留める。

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