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ブルーライン[汽車よゆけ、恋の路(みち)]

WEB掲載分に書き下ろしを加えて文庫化決定! 汽車よゆけ、恋の路(みち) ~明治鉄道浪漫抄~

久我有加

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【お試し読み】汽車よゆけ、恋の路~明治鉄道浪漫抄~

  序


 若友俊次が初めて蒸気機関車を見たのは、十になったばかりの頃だ。
 廻船問屋だった母の実家の家業を受け継ぎ、大きな貿易会社へと成長させつつあった父は多忙を極めていた。にもかかわらず父はその日、俊次とひとつ年上の兄の孝一を駅へ連れて行った。目的は蒸気機関車を見ること、そして乗ることだ。
 母と二つ下の妹と五つ下の弟は留守番だったから、家族旅行というわけではなかった。普段は滅多に口をきかない父と出かけるというので、兄と二人、やたら緊張していたことを覚えている。
 とはいえ蒸気機関車は学校でも話題に上っていて、実際に乗った級友は大いに自慢をしていたため、ぜひ見てみたいと思っていた。だから自分も乗れることになって嬉しかった。
 が、その緊張も嬉しさも、実際に機関車を目にした途端に霧散した。
 大きな黒い鉄の塊。それが轟音をあげ、もくもくと灰色の煙を吐き出しながら、俊足の馬よりもずっと速く地上を駆ける。腹に響く高い汽笛は、未知の獣の咆哮のようだった。
 ただ圧倒された。なんだこれは。凄い。こんな凄いものは見たことがない。
 江戸が明治となったのは十三年前のことだ。周囲の大人たちは様々なことが劇的に変わったと言う。特に直参旗本だった父の父は、徳川家という主を失い、廃刀令で刀を失い、侍として生きることができなくなった。加えて家を存続すべき跡取り息子は、憤るどころか、商家に婿に入ってしまった。祖父にとってみれば青天の霹靂と言える変化だっただろう。
 しかし、江戸ではなく東京府に生まれた俊次にとって、世の中は変化し続けているのが当たり前で、それを憂う感覚はなかった。
 きっと、これからの世の中はもっともっと変わる。異形と呼ぶに相応しい蒸気機関車の姿が、そう確信させた。
 実際に乗ってみて、また驚いた。一等車は中央に通路があり、窓がついた両側に肘掛付の長い椅子が据えられていた。まるで西洋の上等な椅子に腰かけているように快適だった。
 それに、とにかく速い。馬と違って疲れないので、速度が全く落ちない。
 駅で下りた後、声もなく機関車を見上げる俊次と兄に、父は尋ねた。
「鉄道で何ができると思う」
「何ができる、とは、どういう意味ですか?」
 尋ね返したのは兄だ。
 当時はまだごくごく少数の者しか纏っていなかった洋装に身を包んだ父は、兄を見下ろした。
「鉄道ができたことで、世の中は、人々の生活は、商売はどう変わる」
 兄はわずかに首を傾げた後、しっかりとした口調で答えた。
「たくさんの物を一時に遠くまで速く運べるようになりますから、商売の規模が大きくなります。手紙や図面も速く届くので、商機を逃すことなくものにできるでしょう。それから、歩くのに比べて体への負担が少なくて済むので、女子供や年寄りも気軽に遠くへ出かけられます。だからこれまでより旅が盛んになると思います。駅の近くに宿や店を作れば、たくさんの人が利用するようになるでしょう。それに鉄道は多くの日本人にとってまだまだ珍しいですから、汽車に乗ることそのものが目的の旅も人気が出るかもしれません」
 さすが兄さんだと俊次は感心した。汽車に乗ることそのものが目的の旅なんて、思いつかなかった。
 父も同じように感じたのだろう、うんと満足げに頷いた。そして今度は俊次に目を向ける。
「俊次はどう思う」
 え、と俊次は思わず声をあげてしまった。正直、機関車の迫力に圧倒されていて何も考えていなかった。
 それでも、兄と同じ答えを言ってはいけないことはなんとなくわかった。いけなくはないが、父はきっと失望する。
 父さんは、僕と兄さんの答えを聞くためにここへ連れて来たんだ。
 父は次男である俊次にも、それなりに期待を抱いているらしい。将来、社長となる兄を補佐してほしいと思っているのかもしれない。
「疫病が流行ったとき、医者や薬を速く運べるので、病人をたくさん救うことができます。早く対処できれば感染の拡大が防げる。去年流行ったコレラも鉄道が発達していれば、もっと有効な手が打てたかもしれません」
 松山で発生したコレラは、わずか三ヶ月で神戸港から大阪へ広がり、以降、全国に蔓延した。有効な治療法が確立していなかったせいで、致死率は六割以上。俊次の家族は誰も罹らなかったが、親戚や祖父の友人、父の会社の社員とその家族が何人か亡くなった。結局、十万人を超える人々が死亡したと聞く。
「それから、兵士や軍馬も短時間でたくさん運べるので、海から外国に攻められた場合、国を守る役にも立つと思います。食料や武器の補給も簡単になる。鉄道が日本中に敷かれて港とつながれば、の話ですが」
 もうひとつ思いついたことを口に出すと、兄は目を見開いてこちらを向いた。
 父親ではなく社長の顔をした父はといえば、わずかに眉を動かした。
「おまえの級友に、内務省か陸軍省の官吏の子息がいるのか?」
 内務省は国民の厚生を管理する役所だ。疫病対策も内務省の仕事である。
 陸軍省はその名の通り、陸軍を管轄する役所だ。
「内務省の官吏の子供はいませんが、陸軍省の官吏の息子はいます。でも、仲は良くありません。級友の父親は薩摩出身の武士なんです。三年ほど前に江戸に出てきたらしくて、江戸の商人の息子の僕が話しかけても口をききません」
 ふん、と父は鼻を鳴らした。
「将来、仕官するにしても商売をするにしても、商人とつながりがあった方が何かと便利だろうに。視野が狭い。くだらんな」
「はい。でも喧嘩をしても何の得にもならないので、当たり障りのないように付き合っています」
 我らこそが新政府とやたら威張る態度の裏には、江戸者にばかにされまいとする意地が隠れている。その気持ちもわからないではない。実際、薩長から出てきた者に対して田舎侍と陰口を叩く級友もいるからだ。
「それはいいことだな。余計な争いは避けた方が利口だ。しかしそうすると、さっきのはおまえの考えか」
 ふむ、と頷いた父はどこか嬉しそうな顔をしていた。その顔を目の当たりにして、他に考えていたことは言えなかった。
 鉄道を利用して旅する人が増えれば、街道沿いで商いをしていた宿場町は客をとられるだろう。港に出兵する兵士を泊めていた宿屋も閑古鳥が鳴く。人を運んでいた駕籠屋はどうなる。人を乗せていた馬はどうなる?
 万が一、伝染病に罹った者がそうと気付かず汽車に乗って移動すれば、病は三ヶ月どころか数日のうちに全国に広がってしまうだろう。
 栄える者がいれば、その陰で滅びていく者がいる。良いことがあれば、必ず悪いことがある。
 そのことを考えずにはいられない己を俊次が自覚したのは、思えばこのときが最初だったかもしれない。


 ***


「ここからまた急になってますさかい、足下気を付けてください。道が濡れて滑りやすうなってますから」
 前を行く小柄だが屈強な男に声をかけられ、はい、と俊次は応じた。
 そびえるほど高い木々の隙間から差し込む日の光は、早くも傾き始めている。四月も終わりだというのに、山の中は冷え込んでいた。冬の外套を着ていても寒さが染みてくる。わずかに息が白い。
 急峻な山道を歩き始めて、どれくらい経ったのか。
 普段からある程度鍛えているため、ただ歩くだけなら休みなしで五里でも六里でも平気だが、山歩きは不慣れだ。持ってきた風呂敷包みは男が担いでくれているものの、さすがにきつい。

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