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ナツ之えだまめ

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【お試し読み】公然のヒミツ

 その日、在宅SE兼プログラマーである緒沢慧(おざわけい)三十二歳には、コーディングの神が降臨していた。仕様書は頭の中で完璧に記号へと変換され、自分はそれを出力している状態だ。慧はただひたすらキーボードを打ち続ける。
「ん、あれ……?」
 目の前が霞む。
「そういえば、まだおひるを食べていなかったな……」
 立ち上がろうとしてめまいに驚くが、リビングにある時計を見てさらに驚愕する。
「五時……!」
 嘘だろう。しかし外を見ればすでに暗い。
「まずい!」
 保育園バスが来てしまう。慧のマンションは保育園の停留場所から少々離れている上に、他の園児の家とは逆方向だ。そのまま五歳の息子の郁(いく)は保育園まで「お持ち帰り」されてしまう。
「あああ、僕のばかばか!」
 慧は前にも一度、これをやったことがある。そのときには、自転車をかっ飛ばして迎えに行った。郁は園の玄関先に座り込んで自分を待っていた。
「おとうしゃん……」
 泣いてはいなかったが、泣きそうな顔をしていた。二度とあんな思いをさせてはならない。
 急いで靴を履いていると、チャイムが鳴った。宅配だろうか。何も頼んだ覚えはないのだが。
「すみません。急いでるんで、ちょっとあとにして下さい」
 言いながらドアをあけた慧は、「おとうしゃん!」とにこにこ顔で手を振る、ご機嫌な郁に対面した。ジーンズにダンガリーシャツを着た男の腕にだっこされている。
「萩野(はぎの)、さん」
 男は、萩野祐一(ゆういち)、このマンションの隣人だった。郁も自分も髪は自然に茶色っぽいが、萩野は明らかに髪を脱色し、さらに肩近くまで伸ばしている。
「こんばんは」
 なぜ、この男に郁が。
「あのー、メシ買いにコンビニまで行こうとしたら、保育園バスがとまってて、なんだか困ってるみたいだったんで……」
 付き添ってきた保育園の先生が、見知らぬ男によく子供を預けたものだ。しかもこんな風体の。そんな気持ちが伝わってしまったのだろうか。
「この前、公園の草刈りがあったでしょ? そのとき一緒だった奥さんが俺の顔を覚えててくれたのと、この子が」
 郁が片手をあげて宣言する。
「ゆうしゃんはお隣です」
「って、証言してくれたので……。もしかして、迷惑でした?」
「あ、いや。そんなことは」
 回覧板を渡すために何度か隣に一緒に行ったことがあったし、廊下で会えば挨拶をしていたが、ちゃんと覚えていたのか。子供の記憶力は侮れないな。
「すごく、助かりました。ありがとうございます」
 そう言って郁を受け取る。
「じゃ、またね。郁くん」
 彼はそう言って行きかけた。コンビニに行く途中だと言っていた。そのまま一人の夕食をとるのだろうか。郁を「じいじとばあば」に預けたときに自分がするような、味気ない食事を。
「あの」
 あとから思えば、よくそんなことを言ったと思う。
「よかったら、うちでゆうごはん、食べませんか」
 慧は慌てて付け足す。
「ビールもあります」
「あー……」
 どうしよう。
 心臓がどきどきした。図々しかっただろうか。いきなりこんなことを言い出して変なやつだと思われたかもしれない。
 しかし、萩野は慧の不安を一蹴(いっしゅう)するような、人なつこい笑みを浮かべた。
「じゃあ、遠慮なくお邪魔します」
 その答えに、慧はほっと息を吐いた。

 萩野はそのまま郁と一緒に上がり込んできた。朝に掃除をしておいてよかった。エプロンに手を伸ばす。コーディングの神とはしばらくお別れだ。
 リビングの一角には小さな仏壇がある。そこにあった写真を見た萩野が「この方は……」と慧を窺う。
「僕の、奥さんです。五年前にいなくなっちゃいましたけど」
「やっぱり。郁くん、目元がお母さんにそっくりですね」
 挨拶してもかまいませんか、という萩野の申し入れに慧はうなずいた。
「どうぞ」
 萩野は鈴(りん)を鳴らして手を合わせた。
 写真の彼女はいつも笑っている。自分が毎日嘆いていたときでさえ。

 夕食を作るのが妙に楽だと思ったら。
 郁がいつものようにおやつをせがむのも忘れて、録り溜めてあったお気に入りの「電シャイン」という番組を「ゆうしゃん」に見せていたからだった。電車をモチーフとしたその番組は、もう三年も再放送を交えて繰り返し放映されていて、電車好きな郁にはたまらないものであるらしい。が、慧にはまったくその良さがわからず、曖昧にうなずいているばかりなので、子供ながらに張り合いがないらしく、最近は一人視聴が多かった。
 たまに振り向いて見てみると、萩野は電車が好きらしく、出てくるキャラクターを見ては、「あ、今度は山手線?」とか「そっか。今の東海道線はこんな色か」と返していて、郁と二人、盛り上がっている。
 鶏肉を多めに解凍し、塩をまぶしてグリルで焼いておく。郁には細かく切ってやる。柚子胡椒を添えれば、おとなの口にも合う。
 緑がないと映えないので、ブロッコリーに茹で卵を散らしてミモザサラダ風にする。これも自分たちのほうにだけアンチョビを足す。
 しばらく考えて、もう一品は揚げ物を作ることにする。これも普段はやらない。油が子供に跳ねたらたいへんなことになるからだ。里芋を素揚げして醤油とみりん半々のたれをからませた。
「男の手料理なので、おおざっぱですけど」
 リビングのローテーブルに運んで皆で囲む。
「とんでもない、すごいおいしそうです」
 飯は多めに炊いた。それにもかかわらず、若い――聞いたら五つ年下の二十七歳だそうだ――萩野は旺盛な食欲を見せ、それにつられたように郁もよく食べた。萩野がエレベーター会社のメンテナンス部門にいて夜勤があると聞き、昼間、家にいることが多いのに納得する。
 やがて萩野はリモコンを取ると、音を立てないようにテレビを消した。
 彼のかいたあぐらの中で、しゃべり疲れた郁が丸くなって眠っている。彼は、まるで巣の中の小動物のように見えた。
 萩野の手が優しく郁の柔らかい髪を撫でる。弟か妹がいたのだろうか。慣れた手つきだった。慧は立ち上がると手を伸ばした。
「郁をこっちによこしてください」
「はい」
 郁を、あらかじめ隣の和室に敷いてあった布団に移す。歯磨きをさせないといけなかったのだが、滅多にないくらい、楽しそうにしている郁に声をかけるタイミングを逃してしまった。
 萩野は食器を運んでくれ、洗ったあとに拭くのも手伝ってくれた。落ち着いたところでローテーブルにほうじ茶を出す。
「ご馳走様でした、緒沢さん。おいしかったです」
「お口に合ったのならよかったです」
「すごいラッキーでしたよ。俺なんて、あそこをただ通りがかっただけなのに。こんな賑やかな食事は久しぶりです」
「僕も作りがいがあって楽しかったですよ」
 料理は、妻が亡くなってから必要に迫られて始めた。最初の頃の悲惨な料理をもし萩野が見たら、なんと言っただろう。ネットで調べたり本で読んだり母親に聞いたりして、今では随分ましになったが。
「俺、結婚する予定で引っ越してきたんですよ」
 そう萩野は言った。なるほどと納得する。ここの1LDKは一人暮らしにはやや広めだ。
「それはおめでとうございます。式はいつなんですか?」
 彼ならいい家庭を築くだろうと何気に言ったのに、萩野は困ったように首の後ろを掻いた。

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