ブルーライン[とりあえずビール]
ビール大好き、唐揚げ大好き、でも一番美味いのは――え、俺!? とりあえずビール
久我有加
【お試し読み】とりあえずビール
ほたる、とひらがなで書かれた赤提灯が見えてきて、塩津直行(しおつなおゆき)は足取りが軽くなるのを感じた。駅から自宅マンションへ向かう道にあるその小さな居酒屋は、旬の食材を使った手作りの惣菜が売りだ。どれも安くて旨い。
けどやっぱり、俺は唐揚げが一番好きなんだよな。
あと、キンキンに冷えたビール!
もうすぐ九月も終わるというのに蒸し暑い。今日は営業であちこち駆けまわったから、随分と汗をかいた。何度か制汗シートを使ったけれど、不快感は拭いきれない。今日はさぞかし冷たいビールが旨いだろう。
ガラリと木製の戸を開けると、らっしゃい! とすかさず声がかかった。金曜の夜とあって、店内はほどよく混み合っている。ききすぎていない冷房が快い。
こんばんはと応じて、直行はいつも座るカウンター席の奥を見遣った。
そこには洗練されたデザインの眼鏡をかけた男がいた。紺色のポロシャツにグレーの作業ズボンという格好の彼は、こちらに気付いて軽く手をあげる。直行も笑顔で応じた。
「よう、来てたのか」
「おう、お疲れ」
短く応じてくれた男の隣に、ドカ、と遠慮なく腰かける。彼――早坂敬太(はやさかけいた)も直行と同じく、金曜の夜にこの店にやってくる常連だ。何度も顔を合わせるうちに、自然と親しくなった。
「いらっしゃい、塩津君! 何にしましょ」
「とりあえずビール! あと唐揚げ!」
「はいよ、ビールはいつも通り、生の中でいいかい?」
「や、今日は大で!」
声をかけてきた大将に勇んで応じると、ふいに横っ腹をつかまれた。うひゃ、と思わず変な声をあげてしまう。
「何すんだよ」
手を出してきたのは早坂だ。じろりとにらむが、脇腹をつかむ手は離れない。
「おまえ、肉つまめるぞ。メタボじゃねぇか。中にしとけ」
「何言ってんだ、俺はメタボじゃない。あ、大将、大きいのでいいから」
楽しそうにやりとりを見守っていた大将が、はいよ、と返事をする。
「メタボじゃないって言うんだったら、この肉は何なんだ」
更に腹を引っ張られ、いてて、と直行は声をあげた。
「ちょ、やめろって!」
「自重しろ、三十路」
「おまえだって俺と同じ学年なんだから三十路だろ」
「俺は二月生まれだから、まだ二十九だ」
「二月ってことは、あと四ヶ月で三十だろ。同じじゃん」
「二十九は二十九だ。三十じゃない」
しれっと言ってのけた早坂は、ようやく脇腹から手を離す。
痛ぇなあ、と文句を言ったものの、直行は怒っていなかった。早坂のこうした遠慮のない言動は嫌いではない。裏表のない性格の表れだと知っているからだ。週に一度会っていれば、それくらいはわかる。
「冗談抜きで、体重増えただろ」
冷奴を突きながら言われて、首を傾げる。
「さあ、量ってないからわかんねぇ」
「量って現実を見ろ」
「え、俺そんな肉ついてる?」
自分で自分の腹をつまむと、ふに、と柔らかい肉が挟まった。
うわ、これはちょっとやばいかも……。
バスケ部で鍛えていた高校時代とストリートバスケのサークルに入っていた大学時代に比べれば、多少ふっくらしたことは事実だ。十代や二十代の頃とは違って、代謝は確実に落ちている。
「ビール大好きで揚げ物と肉と米とラーメンも好き、甘いものも好き。自炊はしない。朝昼晩、外食とコンビニ頼み。そりゃ太るよな」
淡々と言われて、直行はムッと唇を尖らせた。
「ちょっと腹に肉がついただけで、別に太ってないだろ。俺だって最近はちゃんと体のこと考えてるんだからな」
言い返したそのとき、お待ち! というかけ声と共に大きなジョッキがカウンターに置かれた。黄金色の液体の上にのった白い泡が美しい。
「おー、きたきた!」
早速ジョッキに口をつけ、喉を鳴らして飲む。冷たい液体が滑り落ちてゆく感覚がたまらない。四分の一ほど飲んで口を離すと同時に、ぷはー、とため息が漏れた。
「あー、旨い。生き返るー…!」
「おまえ、それのどこが考えてんだ」
「か、考えてますー。コンビニ行ってもスイーツは買わないようにしてるし、この前社長に焼肉連れてってもらったときも、大好きなカルビ追加するのやめたし!」
直行なりに我慢したことをアピールしたが、早坂は褒めるどころか冷たい目で見てくる。
「追加する前に腹いっぱい食ったんだろ」
「そ、そうだけど。社長にはもっと食えって怒られたもん」
「もんとか言うな」
直行は水産加工品を扱う小さな会社で企画と営業の仕事をしている。社長はワンマンで振りまわされることもしばしばだが、豪快で面倒見が良く、従業員たちに気前よく奢ってくれる。若い奴は飯食ってなんぼ、というのが持論で、たくさん食べないと怒られるのだ。
「人のことばっかり言ってるけど、おまえだって肉ついてきたんじゃねぇの?」
自分だけが責められるのが癪で、早坂の腹に視線を向ける。ポロシャツを外に出しているせいで、肉がついているかどうかよくわからない。
「俺の腹は贅肉ゼロだ」
しれっと答えた早坂の背中を叩く。
「嘘つけ。おまえだってビール好きなくせに」
「好きだけど、ここ以外じゃ付き合いでしか呑んでねぇよ。それに俺は自炊してるからな。弁当も自分で作ってるし、毎日一駅分は歩いているし、ときどきジムにも行ってる」
「はあ? そんな修行僧みたいな生活、できるわけないだろ!」
おりゃ、と早坂の脇腹をつまむ。ビク、と早坂が体を強張らせたのがわかった。
が、そこにはひきしまった筋肉があるばかりで、つまめる贅肉はない。
「え、なにこれ、すげぇ硬い」
「自分が節制できないからって、他人もできないって思うなよ」
早坂はふんと鼻を鳴らしてビールをあおった。彼は大手メーカーで工場機械の設計をしているそうだ。座って仕事をすることが多いらしいのに、ここまでひきしまった体つきなのは、相当体に気を遣って生活しているのだろう。
それにカッコイイし。
シャープな輪郭に収まった目鼻立ちはすっきり整っていて、真っ黒な短髪と眼鏡がよく似合う。いかにも理系エリートという感じだ。恋人がいるとは聞いていないが、きっともてる。
対して直行は、愛嬌はたっぷりあるものの、かっこいいかと言われると微妙、という顔つきだ。ちなみに五年前に大学のときから付き合っていた彼女に振られて以来、フリーである。決してもてるタイプではない。それなのに、早くもメタボ街道を走り始めてしまった。
「でもさー、ビールはやっぱり旨いし、ほたるの唐揚げも、めちゃくちゃ旨いんだよなあ」
大将が運んできてくれた唐揚げを見つめる。こんがりとした狐色のそれから立ち上るこうばしい香りに、ゴクリと喉が鳴る。
我慢できず、直行は唐揚げを口に放り込んだ。外はカリッとしているが、醤油と生姜の味がしっかりとついた肉は柔らかい。じゅわ、と鶏の脂が口の中いっぱいに広がる。そこへ冷たいビールを流し込む。
「あー、うまー……、幸せー……」
うっとりつぶやくと、早坂はため息を落とした。
「食うのがやめられないんだったら、せめて運動しろよ」
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