ブルーライン[うなじまで、7秒]
心より先に、身体が恋を知った――男たちのエロティック・ラブ・ストーリー! うなじまで、7秒
ナツ之えだまめ
【お試し読み】うなじまで、7秒
会社の古びたエレベーターに乗ると、かすかに沈み込んだ気がした。
この会社、滝本物産は一部に上場して、かなり経つ。もっと新しいビルに引っ越してもよさそうなものなのに、社が産声をあげたこのビルを未だに本社としているのは、会長の懐古趣味ゆえか。
この、遅いエレベーター。朝の出社時間には、いつも地上階での大渋滞を引き起こし、中には苛立ちのあまり、七階のオフィスまで階段を駆け上がる者まで出る始末だ。
とはいえ、こんな中途半端な時間。乗るのは自分一人。
と、思っていたら。
「Wait!」
なめらかな発音とともに、長い指がエレベーターのドアをこじあけた。すべりこんできた、タイトなシルエットのスーツを着た男は、佐々木伊織(ささきいおり)を見るとにっこり笑った。
「佐々木さん。出先からお帰りですか?」
もう十一時を回ろうとしている。通常の出社時刻はとうに過ぎている。
「いや。今日は、ちょっと野暮用があったもので」
彼の名は、貴船笙一郎(きふねしょういちろう)。滝本物産が契約している翻訳会社、大島トランスレーションの社員だ。
歳は確か二つ下の二十九歳。父親が日本人、母親がアメリカ人と聞いた。かつて一緒に仕事をしたことがあるのだが、翻訳は的確、会議資料の提出も早く、物腰も柔らか。他部署での評判も上々だ。
なのに、伊織がなんとはなしにこの男に苦手意識を持っているのは、何を考えているのか、よくわからないからだった。異国の血が混じっているせいだろう、彼は全体的に色素が薄い。瞳の色も、やや長めの髪も。黒髪に黒い目の自分とはまったく違う。
たまに目が合うと、いつも薄ら笑いを浮かべている。唐突に英語を発するときがある。英語が母語で、とっさに出てしまうのだろう……と頭では理解しているものの、なんとも掴みがたい男なのだった。
「貴船さん、七階でいいですか?」
「ええ」
エレベーターが動き出す。ドアの上には半円の装飾があり、針がゆっくりと動いて現在の階数を知らせてくれる。
伊織は目を閉じる。
正月にいきなり妻が出て行った。彼女は別れてくれ、伊織は納得できない、その平行線。今日は二回目の離婚調停だったが、結局は不成立に終わった。
――疲れたな。
頭が重い。目の奥が痛む。
調停に出席するために髪を切ったせいで、うなじが寒い。マフラーをしてくればよかった。思い過ごしかも知れないが、貴船にも見られている気がする。
軽い振動があった。七階。目的の階についたのだ。伊織は貴船のために『開』のボタンを押し、扉をあけておいてやった。
なのに、彼はじっとしている。降りる気配がない。
「貴船さん?」
七階でいいと言ったはずだ。
「どうしました?」
振り向こうとして、息をのむ。
うなじを指で撫であげられた。触れるか触れないかのところ、肌のきわを、貴船の指が滑っていった。
「あ…っ!」
その感触は今まで知らなかったほど、あまりにもセクシュアルで、あられもない高い声を上げてしまった。
貴船はかがみ込んできた。
彼がつけている香水がふわりと薫る。
「な……」
キスを、されるのかと驚き、かたく目を閉じる。しかし彼が口づけてきたのは、うなじだった。
まださっきの指の余韻のある箇所に、温かな湿った唇。かすかに押し出された舌先。
「……っ!」
全身がわななき、足から力が抜けそうになった。
唇は離れた。
貴船は、伊織の正面に立っていた。彼の方が若干、背が高い。淡い色の瞳がこちらを見ている。
「ありがとうございます」
「え……」
「エレベーターの、ドア」
彼は、まるで口笛でも吹きそうな足取りでエレベーターから出て行った。何事もなかったかのように。
「なんだったんだ……?」
伊織はうなじに触れる。
たった今、彼が、口づけたその場所に。
貴船と仕事をしたのは、もう一年近くも前のことだ。
ドイツ製玩具のお披露目イベントで会議通訳とリーフレットの翻訳が必要になったとき、大島トランスレーションが『間違いのない男だから』と派遣してきたのが貴船だった。あのときの七階フロアは大騒ぎになった。
男の美醜などどうでもいい伊織が見ても明らかに桁外れな美男子だったし、他国の監督が撮ると東京が異国に見えるように、彼もまた、身にまとっている物も漂う匂いさえ、どこか自分たちとは違っていた。
当人はそんな視線には慣れっこなのだろう。あの薄ら笑いを浮かべて、淡々と打ち合わせを進めていった。
彼が今出入りしている海外事業部は伊織の所属するマーケティング部と同フロアだ。なので、割と頻繁に姿は見かけるが、あれ以来、話をしたことはほとんどない。
ああ、そういえば……と伊織は思い返す。
「佐々木主任。やっぱり、王子様なんていないんですよねー」
同じ班の清水が飲み会で愚痴っていたことがあった。
確か、お盆前の納涼会。隣のビル屋上にあるビアガーデン。彼女はもう何杯目になるかわからないビールジョッキを手にしていた。
「王子様?」
「貴船さんですよ。見た目だけなら最高なんだけどな。でも、顔も性格もいいなんて、世の中、あり得ないんですねえ」
清水の目はとろんとしていた。そしていつもの五倍は、よくしゃべっていた。
「仕事はきちんとやる男だと思うが」
「そこはいいんですよ。でも、私生活がだめ。あんな女ったらしだなんて想像もしてませんでした、私」
「女ったらし?」
「大島トランスの人たちが言ってましたけど、つきあって二ヶ月もすると飽きて別れちゃうらしいですよ。二ヶ月ですよ? どうせすぐ次の相手が見つかると思って」
「それは凄いな」
伊織は素直に感心した。そんなペースで相手を替えていたら、自分だったら名前を間違えてしまいそうだ。
「貴船さんが爪をきれいに磨きだすと、彼女ができたってことらしいですよ?」
「爪? なんでだ?」
意味がわからず問い返すと、酔った彼女に背中を叩かれた。
「もう、主任てば、えっちぃ! 結婚してるんだからわかるでしょー!」
すこぶる痛かったことを覚えている。
女には不自由しない、たいそうにもてる、そんな男が、どうして?
びりりとうなじが疼いた。
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