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ブルーライン[緋痕の虜囚]

WEB掲載分に書き下ろし後日談を収録&逆月酒乱先生のイラストで文庫化決定! 緋痕の虜囚

淡路水

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【お試し読み】緋痕の虜囚

プロローグ

 黒く塗りつぶした背景に、まん丸く切り取った白い紙でも貼り付けたかのようなきっぱりとした満月の夜だった。
 追われてさえいなければ、この明るすぎるくらいの月明かりは山道を歩くのにかなりの助けになっただろうが、いまは違う。明るいのがかえって仇になるくらいだ。明るすぎる。
 海里(かいり)は恨めしげに顔を上げて、丸い月に向かって呪詛のようにひとつ舌を打った。
 喉が渇いた。
 ほとんど出ない唾液をごくりと飲み干し、全身の神経を張りつめさせながら、深い山道をただひたすら歩く。はあはあと荒い息に交ぜて、やけくそのように大きな溜息をこぼした。
「しっ」
 前を歩く男が立ち止まって、声を出すなと言いたげに振り向いて唇に指をあてる。
 海里よりずっと背の高い彼の、浅黒い肌に黒い髪は闇の中に溶けようとはせず、それどころか月に照らされてますます際だっている気がする。目鼻立ちのくっきりした顔立ちも陰影がはっきりとしていつもよりさらに表情は鋭い。
「ラド?」
 いきなりのことで訊き返すと、海里がラドと呼んだ男にじろりと睨まれた。ややつり目なだけに迫力がある。思わず肩を竦めて口を噤んだ。
 そして彼はすぐさま耳をそばだてる。まったく動こうとしない彼は微かな音を聞き逃がすまいと全神経を傾けているに違いない。
「こっちだ」
 しばし眉間に皺を寄せて、物音に集中していたようだったが、やがて表情を緩め身体の向きを変える。
「追っ手?」
「いや、違ったらしい。ただ水の音がした。沢があるんじゃないか」
 沢、と聞いて海里はいまにも飛び上がらんばかりに喜んだ。水が飲める。干からびた喉を潤せると思っただけで、口の中から唾液が溢れてくるような気がした。
 歩きどおしで足は疲弊しきっていたが、水が飲めると思うと足取りは軽くなる。海里は必死にラドの後ろについて歩く。
 石ころが足の裏に食い込み、クマザサの葉がちりりと皮膚を薄く裂く。痛みに眉を顰めたが、水と聞いてそんな痛みも忘れてしまいそうだ。
 ラドが立ち止まった場所からそう離れていないところに小さな沢を見つけた。幸い沢への傾斜は緩やかで、月明かりの助けもあって下りるにあたってはさほど困難ではなかった。
 さらさらと水の音が聞こえる。
 小さな水の流れと、ほんの半畳程度の池のような水溜まりを見つけた。小さな水面に月がゆらゆらと小刻みに震えながら浮かんでいる。海里は思わず声を上げた。
「水だ……!」
 水際に駆け寄って海里はひざまずき、すぐさま手で水をすくった。
「飲むならこっちだ」
 ラドがすぐにでも水を飲もうとしていた海里を制し、小川の上流の切り立った岩場からこんこんと湧き出して、ごく小さな滝を作っている清水を指さす。今日の月明かりは本当に眩しい。水の反射もあるのだろうがあたりがよく見える。
 海里はラドの指さす方へ足を向けた。
 下流よりも上流の方が水はきれいだろう。確かに飲むのならこちらの方がいい。
 海里は丸く器のように作った両手で水を受けて、ごくごくと水を喉に流し込む。
「冷たい!」
 渇いてひりついた喉が潤う。冷たい水が胃までたどり着けずに、途中でそのすべてが身体に吸収されてしまう気がするほどだ。だから勢いよく飲んでしまった。
 急いで飲んだせいかケホケホとむせてしまい、ラドに「慌てて飲むからだ」と背中を叩かれる。
「一気に飲んで腹が痛くなっても知らないからな。ゆっくり飲め」
 ラドに呆れたような口調で注意され、苦笑いを浮かべた。
 今度は顔を洗う。冷たい水が火照った顔に心地よい。今夜のような湿気を帯びた熱い空気の中では特に。
 ついでに靴を脱いで、小川の浅い場所で足を水に浸す。足の裏の筋肉がクールダウンして、疲労を癒やしてくれた。
「少し休んだら行くぞ」
 乾いたラドの声に海里は短く「うん」とだけ返事をする。長く休んでいる暇はない。一刻も早く自分たちはこの山から下りたいのだ。
 とはいえ、ここまで休憩をほとんど取らずに歩きづめでいたから疲労もかなりのものだ。
「それとも仮眠取った方がいいか」
 ラドは海里がそろそろ限界に近いと思ったらしく訊いてきた。
 海里は問いに首を振る。
「大丈夫。ちょっとだけ休ませてもらえたら動けるから。心配しないで。先に進もう」
 疲れているのは自分だけではない。それにただでさえラドは海里に合わせて歩く速度を加減してくれている。彼単独でならいま頃もっと先に進めているはずだ。それを考えると、仮眠など悠長に取っている場合ではない。
 ラドに比べれば華奢な身体つきとはいえ、海里はこれでも若く健康な成人男性だ。体力だってそれなりにある。ここで弱音を吐くわけにはいかなかった。
「無理するな」
 海里の額に浮いている水滴をそっと拭いながら、ラドが心配そうに言う。海里はにっこりと笑ってみせた。
「無理じゃないよ。知ってるだろ、おれ、意外と体力はある方だから。……ラドほどじゃないけど」
「それはそうだが、ここまでずっと歩きっぱなしだ。おれはいいが、海里は─」
 言いかけたラドを海里は「平気」と言って遮った。
「大丈夫だって。ほら」
 海里は立ち上がると手足を大きく動かし、まだ動けるとアピールする。足踏みするたび、水しぶきが大きく上がった。
「わかった、わかったから。あんまり動くなって。おれまでびしょ濡れになっちまう」
「いいじゃん。ラドも水ん中入れよ。気持ちいいから」
「おれはいい」
「そう? 気持ちいいのに」
 不満げな声で言うと、クスクス笑われる。
「それよりそろそろ上がれ。ここの水は冷たすぎる。あんまり冷やしすぎてもよくない」
 ラドの忠告に、海里は素直に頷いた。
「うん─―うわっ」
 水から上がろうとしたとき、ぬるりとした苔に足を滑らせバランスを崩す。あやうく転びそうになったが、すっと伸びてきた腕に身体を支えられた。
「だから言わんこっちゃない。……足はくじかなかったか」
「ごめん。……大丈夫。ありがとう」
 ラドの腕に身体を抱えられ、海里は水から上がる。胸がドキドキと鳴っていた。それはけっして、転びそうになったことだけが理由ではない。多分、もっと他の原因がある。けれどいまはそんなことを考えている場合ではない。
「足が大丈夫ならいい。そろそろ行けるか」
「うん。十分休んだし、行こう」
 海里がはっきりとそう言うと、ラドは海里から腕を放し肩をひとつ叩いて「準備ができ次第出発だ」と緊張感を伴った声を出す。ついいまし方までのゆるりとした雰囲気から一転。海里も大きく息を吸って気分を切り替えて気合いを入れた。
 海里とラドは、とある施設から脱走してきた。いま自分たちは脱走者として追われる身だ。追っ手に捕まる前に、早くこの山を下りてしまわなければならない。でなければ─。
 海里は首筋にある赤い痣を左手で掴むようにして隠す。
 ─あいつらの実験の対象にされるなんてまっぴらだ。
 きゅっと唇を噛んで、じっと押し黙る。すると耳に違和感を覚えた。はっと顔を上げるとラドも同じだったらしい。目を合わせ頷いた。
 ほんの僅か、空気を震わせる物音に海里とラドは同時に気づいたのだ。ラドが目配せで海里にじっとしていろと指図する。海里も目で応える。
 ラドはポケットから細く編んだ紐のようなものを取り出すと、水辺に転がっているこぶし大の石をひとつ拾い上げた。

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