ブルーライン[純情彫刻家の不埒な指先]
WEB連載分に書き下ろしと伊東七つ生先生のイラストをつけて文庫化! 純情彫刻家の不埒な指先
浅見茉莉
第4回:【お試し読み】純情彫刻家の不埒な指先
その山の中腹には、現代日本らしからぬ洋館が建っていた。
ウロコ形のスレートで葺かれた尖った屋根を持ち、片側には塔がある煉瓦造りで、建物そのものはそう変わったところはない。歴史ある観光地やリアルに徹したアミューズメントパークでも、こういったデザインの洋館を目にするだろう。
しかし周囲は他になにもない山の中、こんもりと大樹が茂って日中も薄暗い。道路から洋館までの道は舗装されていないどころか、下生えを踏みしめた跡でどうにか通路だとわかる程度で獣道と変わらない。
しかも洋館は手入れが悪い。というか、手入れなんてしていない。雨どいは外壁から外れかけているし、窓ガラスは風雨に晒されて曇りきっている。捨て置かれた空き家にしか見えないだろう。
いや――山登りをしていて道に迷い、いきなりこんな洋館が目の前に現れたらホラーだ。軋むドアを開けて顔を出すのは、毒リンゴを手にしたしわくちゃの魔女か、あるいはホッケーマスクでチェーンソーを携えた殺人鬼か。つまりその家には、そんなある種現実離れした、おどろおどろしい雰囲気が漂っていた。
今、アーチを配した玄関ポーチから、まさに人影が逃げるように飛び出してきた。妙に野太い泣き声が響き、樹木に羽を休めていた鳥たちが、驚いたように飛び立っていく。
洋館から出てきたのはトレンチコートをまとった男だったが、コートの上からもその筋骨隆々とした肉体が窺えた。例えるならヒール役のレスラーか、チャンピオンクラスのボディビルダーか。
その体躯にふさわしく、顔面のほうも面長すぎて頬骨が高く、眉と口ひげが黒々としている。魔女が相手だろうと殺人鬼が相手だろうと、多少は張り合えそうなキャラクターなのに、男は涙を流しながら屋敷を振り返ると、重ねた両手で自分の胸を押さえた。
「それでもお慕いしています! 先生のことは忘れませんっ!」
己の台詞に酔ったように目を閉じ、洋館に向けて惜別の念たっぷりに片手を差し出した後、男は獣道を駆け出していった。麓まで一気に辿り着けるのではないかと思えるような、頼もしいフットワークで。
――その一部始終を、曇った窓ガラス越しに見つめていた影森瞳(かげもりひとみ)は、男の姿が木立の陰に消えたのを機に目を伏せてため息をついた。
ごめんなさい、アンソニー……でも、俺が求めてるのはあなたではないんだ……。
去っていった男――アンソニーの逞しい肉体に期待して、今度こそという思いでこの屋敷に迎えたのだったが、やはり瞳は満足できなかった。鎧のような筋肉に覆われた男を求めるあまり、次から次へとこの屋敷に呼び込んでは試してみるが、納得できる相手に出会えるどころか、気持ちは萎えていく一方だ。
まずいだろ、全然その気になれないって……。
追い返された男たちも気の毒ではあるけれど、瞳もまた追いつめられていた。どうしたら、これだと思う相手に巡り合えるのか。相手がいないことには、瞳の人生も断たれることになる。
彫刻家としての人生が。
影森瞳がデビューしたのは、学生時代に伝手でもらった彫刻の仕事だった。太陽光発電システムのメーカーから広告用に一体依頼され、ソーラーパネルを張った屋根に設置したいとのことで、太陽をイメージするギリシャ神話のアポロンを作ったのだ。通常であれば大道具として張りぼてで充分なところを、メーカー社長が美術品好きということで鉢が回ってきたこともあり、瞳は気合いを入れてアポロンを制作した。
たまたまそのときのモデルがマッチョだったこともあって、ずいぶんと力強いアポロンが出来上がったのだが、ソーラーパネルのパワーを印象づける彫像だと社長は気に入ってくれ、また強烈な印象の彫刻は話題にもなった。
さらにアポロンは、世界的に著名なコンクールの審査員ソリアーノ氏の目に留まり、世界規模で知る人ぞ知る彫刻となった。ことにソリアーノは瞳の才能を高く評価し、自ら作品を依頼してプライベートコレクションとした。ちなみにその作品は、ギリシャ神話でも指折りの美青年ナルキッソスだった。もちろん前作を踏襲して超マッチョである。
二年前にソリアーノが没した時、遺族によって彼のコレクションがオークションにかけられたのだが、七十五万ユーロという値がついたことから、海外での評価がじわじわと上昇している。件のナルキッソスは、新しい持ち主からイタリアの美術館に貸し出されているという話だ。
ギリシャ神話をモチーフにマッチョな筋肉美の彫刻を作る――という瞳の作風が定着し、それと同時に注目が集まるにつれて、瞳は世間から身を隠した。
もともと好きな彫刻を作れれば満足で、自分自身が表に出たいというタイプではない。むしろ引っ込み思案で気弱な性格で、騒がれるのは苦手だ。
それが思いがけずに世間から高評価をもらってしまい、未だに戸惑っているというのが正直なところだった。さらに期待を背負わされて、近年は当惑がプレッシャーに変わっている。
世の中が望んでいるのは、隆とした筋肉を持つギリシャの神々の姿だとわかっている。わかっているのだが――。
でも……なんか違うんだよな……。
最近の瞳はそう思ってしまうのだ。だから今日もまた、モデルのアンソニーを解雇してしまった。本当に申しわけない。
たしかに以前は、マッチョなフォルムがいいと思っていた。そこにインスピレーションを感じたからこそ、自分も情熱を込めて彫刻を制作したのだ。
しかし当年とって三十歳の瞳は、人間としても彫刻家としてもまだまだ過渡期であり、思考も志向も変化していく。以前ほど筋肉隆々の肉体には魅せられなくなってきていた。
大理石彫刻を主としていることもあって、瞳がこれまでに作り上げて世に出したものは、まだ両手の指に足りない。だから見る者はまだ見飽きていないのだろうが、その間にいくつもの習作や失敗作を経験している瞳にしてみれば、もう次のステップに移ってもおかしくはない。
世間に望まれているのはマッチョ彫刻だとわかっているのだが、そこに対する瞳の熱意は薄れていた。これはと思うマッチョモデルを呼び寄せても、今回のように追い返してばかりいる。
しかもデビュー時に騒がれてマスコミ攻勢を受けたのに懲り、顔出し取材を一切避けて海外のエージェントにコンタクトを任せているせいで、妙な噂が出回っているらしい。曰く、瞳自身も日夜トレーニングを欠かさず、ムキムキの肉体を保持しているとか、ナルシシズムが極まって処女作のアポロンも己の肢体を写したものだとか、マッチョモデルたちと日夜酒池肉林を繰り広げ、飽きるとモデルを捨てるとか。
実際の瞳は身長体重ともに平均を下回る体格だし、目鼻立ちも押しの弱さが表れているような印象の薄さで、世間でいうところの草食系男子という雰囲気だ。
モデルを追い返すことになっているのは確かだが、公私混同の関係にはなっていない。それどころか仕事関係すら築けていない。
しかしどういうわけか、モデルは揃って瞳に心酔してしまうらしく、ひどく傷心して帰っていくので、振ったとか捨てたとかいう話になるようだ。
今や影森瞳のイメージは、気むずかしい暴君、しかもむくつけきマッチョ彫刻家となっているそうだが、否定する気力もない。そんなことよりも、作品が作れないことのほうが問題だ。