ブルーライン[鑑賞倶楽部]
WEB掲載分に書き下ろし&山田シロ先生のイラストを加えて文庫化決定! 鑑賞倶楽部
マキ
【お試し読み】鑑賞倶楽部
自分は欠陥品なのだと思う。
そのうえ臆病な鬱屈野郎であるとも思う。
としても、だ。そんな姿をところ構わずさらすような馬鹿ではない。ましてや仕事場などではなおさらだ。たとえ一日の殆(ほとん)どを労働に費やすのだとしても、営業先でもオフィスでも笑顔の仮面が必須である。足元軽い陽気な男を演じなくては営業などという仕事はできないし、まずまともに生きていられない。
「あれ、一之瀬(いちのせ)さん今日はもう上がりですか? まだ七時前ですよ、いつも遅くまでいるのに珍しい」
予定通りさっさと近場の外まわりを済ませた水曜日、オフィスに戻り重たい鞄から分厚い資料を引っぱり出してデスクに重ねていると同じ営業部の新人に声をかけられた。
見ると彼は書類を前に頭を抱えている様子だった。確かに慣れぬ書類仕事はある意味外を飛びまわるより面倒だと思うことがある。普段であれば手伝おうかと言ったかもしれないが、残念ながら本日は行きたい場所があるので言わない。
軽薄な声で答えた。ここ十数年かけてせっせと積み上げた一之瀬京也(きょうや)二十九歳の人物像とは選んだ言葉通りのものである。
「うん。上がるよ。このマイペースなおれが完璧なる早上がりスケジュールを組んでかつ完璧にこなしたからには何がなんでも上がるの。止めてくれるな、若人よ。男にはやらなくちゃならないことがあるだろ」
「仕事できないひとが言ったらしらけるけど一之瀬さんなら笑うしかないかなあ。女ですか? 一之瀬さんて恋人いるんですか?」
「恋人なんておりませんよ。だって考えてよ、地球にはさ、総人口の約半分もの女が溢れてるんだぜ? ひとりに決めるなんて愚の骨頂、おれはまだまだ楽しむの」
おれはまだまだ楽しむの、か。
これが本心だったなら、本気でこんなことを言えるのだとしたら、これほど愉快な人生はないよなとは思う。
多少は軽くなった鞄を掴みひらひら片手を振ってデスクに背を向ける。ドアを開ける後ろから、イケメンは言うことが違いますねえ、などという新人君の見解が聞こえてきたが知らぬふりをしてオフィスを出た。
周囲を欺かなければ歩けない。明るいふりを、見せかけだけでも生彩を、でなければ自分などはただの汚物である。完璧な笑顔で仕事をこなして、ときには派手に遊ぶんだよと嘯く。慎重に選んだその仮面はいつの間にか顔にはりついてしまい、そう簡単にははがせない、はがすべきではない。
さっさとビルのエントランスを通り過ぎて食事はどうしようかと腕時計に目をやり、のんびりしている時間もないかとパスすることに決めいつものごとくスティルに向かった。
オフィスの最寄り駅から電車に揺られること十五分、さらに徒歩約十五分、わざわざ三十分もの時間をかけてまで週に一度、その店に通う。唯一自分が欠陥品である事実を明かせる場所である。会員制のオナニー鑑賞クラブ、いわゆるオナクラだ。そんな場所の店名が静寂やら静止やらを意味するスティルだとは悪趣味な洒落のようではあるが、ある意味その通り時間は止まっているのかもしれない。
スティルは街外れの雑木林に隠れるように立つ一軒家を使っている。むかしは要人の邸宅だったのだろう。外装も内装もその通り少し古くて無駄に金のかかっていそうな、やたらと部屋の多い、広い洋館だ。
派手な看板などはない。計算尽くの密度で蔦(つた)の這う門に立てかけられた黒いプレートがさり気なく主張しているだけだ。一之瀬がスティルを知ったのは、たまたまこの街で派手に酒を飲んだ帰り道、酔いでもさまそうと遠まわりしてふらふら歩いていたときにそのプレートにふと気づいたからだ。急いでいればただの家だと通りすぎるだろう。
そのような店だから入ってみる気になったのだ。あまりにも露骨な、いかにもオナニークラブでございますという店ならば躊躇(ちゅうちょ)する。
オナクラとは、キャストと呼ばれる女性が客のマスターベーションを見る、ただそれだけの場所である。
キャストが手を使う道具を使う服を脱ぐ、客が匂いをかぐ写真を撮ってもらう果てはキャストの唾液を持ち帰る。大抵の店はそういうオプションがあるものらしいが、スティルではあまり重視していないようだ。まさに言葉通り鑑賞クラブ、見ることが一番だ。
オナクラに硬派も軟派もないが強いて言うのであれば硬派である。初回に身分証を二種類提示させるほどには客の身元を見るし、極端なオプションもないのに料金設定が高いので金がなければ通えない。強気だ。それでも足を運んでしまうくらいには雰囲気もよいし接客も丁重で文句はない。この手の店にしてはプライバシーもきっちり守られているのだと思う。もちろんそんな場所に高級も低俗もないにせよ、これも強いて言うのであれば高級だ。
降り立った駅から十五分歩き辿り着いた店へと続く細い路には、場所柄ひとが殆どいない。
まるで自分の家に帰るように門をくぐり木製のドアを開け、かつてはリビングだったのだろう待合室に足を踏み入れた。家具も当時のものをそのまま使っているらしくやたらと値が張りそうなソファに座ると、すぐにスーツ姿の真崎(まさき)が部屋に現れた。
客の応対をするのは大抵の場合は彼である。もう数年は通っているものだから、責任の所在を明らかにするためなのかスーツの胸に付けられた小さなネームカードに記されている名前をいつの間にか覚えてしまった。
ネームカードには、真崎、としか書いていない。この男のファーストネームはなんというのだろう。
まだ若い。二十代前半くらいか。
「いらっしゃいませ、一之瀬様」
「やあ真崎くん。こういうときには普通にっこり笑うものだぜ、あいかわらず冷めた顔して」
「私が笑っても仕方がないでしょう。それはキャストの仕事です。先週のご予約通りでよろしいですか?」
一之瀬の前で片膝をつき、洒落たレストランのメニューみたいな写真一覧を広げ、真崎は実に淡々とした口調でそう言った。まったく仰る通りだし、こういう種類の店ならばそのように機械のごとく振る舞うのが相応しいのかもしれないが、一度くらいは笑顔も見てみたいとは思う。
ぞっとするほど綺麗な顔をしている男だ。
緻密に計算されて少しの狂いもなく作られた彫刻のように整った造作である。単純に格好いいというよりは、無表情も相まってあまりに隙がなさ過ぎ、硬質で冷たそうな印象を受ける。人間味がないというか。
細い銀縁の眼鏡をかけているが見る限り伊達眼鏡である。単に洒落気なのか、それとも他に意味があるのか。知りたいとは思っても言及する筋にないので口には出さない。
スーツ姿でも分かるいい身体つきをしていて背は高い。朝方の静かな湖みたいな少しやわらかい髪の色、瞳の色をしている。ブルーグレイとでも言えばいいか。綺麗だ。こんなところでスタッフをするよりホストでもやったほうが稼げそうである。このクールなイメージが素なのだとしたらそういうタイプの男を好む女には圧倒的に受けそうだ。
真崎の視線が真っ直ぐにこちらに向いて、ようやく自分が彼に見蕩れていたことに気がついた。
「ああ。うん、予約通り」
慌てて右手の人差指で、一枚の写真を指さした。由加里(ゆかり)という名のキャストだ。一之瀬はこの店にはじめて足を踏み入れたときから彼女以外のキャストを指名したことがない。