ブルーライン[青を抱く]
WEB掲載分に書き下ろし&藤たまき先生のイラストを加えて文庫化決定! 青を抱く
一穂ミチ
【お試し読み】青を抱く
光と水に洗われたら、この世のほとんどのものは美しく見える。コンビニのビニール袋、片方だけのスニーカー、どんくさいくらげ、なぜか年がら年中見かける花火の残りかす。それらは海藻に混じって浜辺にのっぺり寝そべり、濡れた砂粒を、いっそ誇らしげに見えるほどきらきら光らせながらまとっているのだった。放っておけばまた満ちた波にさらわれ、どこかへ流れ、あるいは間違えて魚の腹に入ってしまうかもしれない。
泉(いずみ)は半透明のポリ袋片手に波打ち際を歩きながら、足元の漂着物を拾っていく。ビーチコーミングとかじゃなく、ただ捨てるために。あんまり大きすぎるもの、生き物の死骸、分別に困りそうなものは無視する、大きくルートを外れてまでピックアップしない……いろいろと自分に都合のいいルールを設定しているので苦にはならない。あっという間に手はじゃりじゃり汚れ、遠くから眺めていた時の輝きはかけらもない。ごみはただのごみだ。
でも、海辺に訪れたもの、が何だか特別に思える気持ちは分かる。自分に見つけられるために旅をしてきたような気がするから。丸い石だの、英語のラベルがかすかに残った空き瓶だの、ライターだの、昔は競って探した。映画や小説に出てくる手紙入りの小瓶なんてものはとうとう見つけられなかったけど。
陸地に向かって二キロ弱丸くえぐれ込んだ海岸線を歩き、三十リットル容量の袋にごみを拾う生活を、かれこれ一年半ぐらい毎日続けているのに、泉の印象では、浜は特にきれいにも汚くもなっていないと思う。環境保全という大それた気持ちはなく、単なる散歩のついでに過ぎないから落胆はしないが、やってもやらなくても同じなのかな、と考えてしまう時がある。
でもすぐに、そんなのは今の自分が判断できるものじゃない、と思い直す。今している行動の思わぬ化学反応は十年後現れるかもしれない、泉に分からないかたちで現れるかもしれない。やってもやらなくても同じように見えることなら、やるほうを選ぼう。ごみを拾い続けるのと同じぐらいの頻度で泉はそう自分に言い聞かせている。もはやまじないみたいなものだ。
いつの間にか腕がだらりと下がっていて、ごみ袋を砂浜にずるずる引きずってしまっていた、振り返ると数メートル、浅く這った跡が残っている。一回波が寄せてくればすっかり消えてしまう程度に。明け方まで仕様書の校正をにらんでいたせいか、すこしぼんやりしている。海面を撫でる朝日はまだやわらかいが、昇りきってしまうとまぶしくて目がしぱしぱするかもしれない。
さっき見落としていたらしい単三の乾電池を拾い上げて再び向き直った時、波打ち際に立つ男の存在に気づいた。進行方向の先にいるので、ずっと見えてはいたのだけれど、一度視線を外したことで初めてちゃんと認識した、そんな感じだった。
散歩ルートで遭遇する地元民とは大概顔見知りだが、その誰でもなさそうだ。観光客かもしれない。春先だから、遊泳禁止の看板に気づかず(あるいは無視して)波に分け入っていくおそれはないだろう。
あ、ちょっと似てる、と思った。パーカーのこんもりしたフードから首を突き出すように、すこし背中を丸めて海を眺めている立ち姿が。その時点では、海辺にいる若い男がみんな似てるように見えてきたのかも、と自分に苦笑していた。けれど近づくにつれ、その感覚を無視することができなくなっていった。
ジーンズの前ポケットに手を突っ込む時の肘の角度、ポケットからはみ出した親指の爪の形。足の開き幅、角度。些細な要素のひとつひとつが懐かしさの大波になって泉を頭から呑み込んだ。男の五歩手前で動けなくなった。
そんなわけがない、と頭では理解しているはずだったのに、男が水平線から目を逸らしてこっちを見た瞬間、泉は声に出さずにいられなかった。だってこの黒目がちな目、すこし鷲鼻ぎみの鼻、いつも両端がわずかにきゅっと上がった、大きい、というより長い印象の口。
「しずの」
万に一つの可能性もない、だから人違いだと自分に思い知らせるための空しい呼びかけだった。奇跡を夢見る時期なんかとうに過ぎたはずなのに、寝不足のせいかもしれない。
「……え?」
案の定男はきょとんとまばたいた。真正面からでもやっぱり似ている、とはいえ同一人物ではありえない。
「すみません」
泉は慌てて頭を下げた。
「知り合いに似ていたので」
「あーそうなんすかー」
戸惑った表情がぱっと笑顔に変わる。あ、よかったいい人そうで。軽く頭を下げ通り過ぎようとした時、背後で「え」という声が聞こえた。
「……はい?」
男に向き直る。
「いや、あの、行っちゃうんだと思って」
「は?」
「人違い装って声かけるって、ナンパの鉄板だから」
期待しちゃった、と悪びれずに笑う顔まで似ていて、ものすごく腹が立った。
「全然違います」
人当たりがいいと自他ともに認めるところの自分にしてはつっけんどんに否定すると歩みを速める。
「あ、待って待って」
むかついていても、あからさまに無視できるほど気が強くない。「まだ何か?」と声を低めて立ち止まるのが精いっぱいだった。
「これ」
ひしゃげた空き缶が差し出される。
「ごみ拾ってんだよね? ついでに。駄目なら俺が捨てとくけど」
「……ありがとうございます。いただきます」
袋の口を広げながら、何でお礼言っちゃってんだろうと小心さに呆れた。自分で捨ててくださいって言えばよかった。
砂にまみれた缶を放り込む時、男はすこしためらった。
「これ、分別とかは?」
「家でします」
「え、悪いね、何か」
「別に……大した志があってしてるわけじゃないんで。暇つぶしです。触りたくないぐらい汚いごみなら放置してますし」
「そっかー」
缶を手放し、手についた砂を軽く払うと、泉を見てこらえきれなくなったように笑い出す。
「何か?」
「今、『ありがとうございます』って言ってから、『あっしまった』みたいな顔してたでしょ」
「えっ」
そんなに分かりやすかったのだろうか。図星すぎてとっさに否定もできずにいると「素直……」と目を糸にした。そして言葉が出ない泉に尋ねる。
「名前、何ていうんですか?」
「……それってナンパですか」
「うん、そう。鉄板でしょ」
どういうわけで初対面の人間からこんなからかわれ方をしなくてはならないのか、泉はむっと仏頂面をつくって「俺、男ですけど」と言った。
「大丈夫、見れば分かるよ」
「……そうですか」
拒否を示すようにごみ袋の口をきゅっと縛り、ゆるい傾斜の砂浜から、国道に続く階段を上がって行った。いつもは浜を往復して車に戻るのだが、さっさとこの男から離れたかった。また話しかけられたらどうしようと緊張したが、何も聞こえてこなかった。背中に視線を感じるのは気のせいだろうか。じゃり、と階段を踏みしめながら、心臓がすこしだけ速いのを自覚する。声だって似てる。中身は――あのぶんじゃ全然違う。
車のトランクにごみ袋を入れ、十五分ほど走れば通い慣れた総合病院に着く。十階の七号室。扉の、銀色のバーに手をかける時泉は毎日考える。いつもどおりの声で、いつもどおりの声で。自分が覚えている「いつもどおり」が正しいのかどうかもう分からなくなっていたとしても。
ドアを引きながら言う。