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ルージュライン[恋するフレグランス]

【書き下ろしを加えて文庫化決定】 美青年メイクアップアーティスト×うぶな理系女子。恋は唐突なキスからはじまる――。 恋するフレグランス ~調香師の甘い条件~

麻木未穂

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【お試し読み】恋するフレグランス~調香師の甘い条件~

 依子(よりこ)は、不安と緊張を感じながら、視線を斜めに動かした。
 広いテーブルを挟んで反対の端に、自分とは違う世界にいる女性が座っている。その前で、これまた違う世界にいる男性が、彼女にメイクを施していた。
 依子は、二人を視界から追い出すように目を閉じて、女性のまとっている香りに集中した。
 トップノートは、青いシトラスのさわやかな酸味。それから、瑞々しいグリーンへと移り、最後には落ち着いたウッディによってまとめられる。
 海外ブランドが出している有名な香水だ。調香師なら誰もが知るトップ・パフューマーが、たわわに実るグリーンマンゴーをもいだときにイメージを喚起した。
 依子は、トップ・パフューマーが感じた喜びを自分も同じように感じたあと、まぶたを開いた。とたんに、二人の男女が目に入った。
 くつろいだ様子で男性の手に自分をゆだねるモデルは、まなえによれば「香水好きで有名」なのだそうだ。彼女から香り立つ爽快なシトラスは、三月になったばかりとはいえ、すでに初夏を思わせる今日のような日にはぴったりといえる。
 彼女が、素人臭さがうりの「読者モデル」ではなく、海外でも活躍するトップモデルなのは、スタイルや輝きからもはっきりと見て取れた。
 くっきりした眉や目のふちはメイクの必要があるとは思えず、持っている塩基は同じなのに、並び方が違うだけで、こうも変わるのかとため息をつきたくなる。
 デオキシリボ核酸は、残酷だ。年齢は、依子と同じ二十八歳。
「取材の依頼が来たから、お願いできるかな」とチーフ・パフューマーに言われたとき、依子は「わたしより高森(たかもり)さんの方がいいと思います」と即答した。卑屈な気持ちからではない。純粋にその方がいいと思ったのだ。地味な自分より、誰が見ても美人で、身なりにも気を遣っているまなえの方が華がある。依子だって気を遣っていることは遣っていたが、気の遣い方がまなえとはまったく違っていた。
 依子は、すべてが実用的だった。流行に関わりのない服、化粧は基礎化粧のみで口紅もぬらない、ネイルもしない。セミロングのストレートヘアは、自然乾燥。
 身長は平均的で、中肉というよりはやや細い。整った眉やあまり大きくはない目、小さな唇と高いほお骨は、必ず「頭がよさそう」といわれる。
 ブランドは知っているものの、香りに関するものだけだ。どれだけ似通った香調でも、香りの違いは簡単に嗅ぎ分けられるし、香水の名前もわかる。
 けれど、本物の「バーキン」と「バーキンタイプ」の区別はつかなかった。
 そんな自分が、クライアントとの打合せならともかく、ファッション雑誌の取材なんてどう考えてもやめた方がいい。依子は、「高森さんの方がいいと思います」という一言に、これらすべてを凝縮した。
 だが、先方が求めていたのは、「研究職に従事する理系の若い女性」だった。
 そこそこ名前のある国立大学で有機化学を専攻し、修士課程を修了、二十四歳で香料会社のフレグランス研究開発室に配属され、アシスタント・パフューマーとして働き、四年。最近になって本格的な調香を任されるようになった依子は、すべてにおいて今回の企画にあっていた。
 二十七歳の高森まなえは、お嬢さま大学で知られる私立の英文学部を出て、二十二歳で営業部に配属。四年間、営業事務に携わったあと、一年前に本人の熱心な希望でフレグランス研究開発室に異動してきた。現在は、ひたすら香りをおぼえることが仕事で、先方の求める「理系の女性」ではなく、調香を語るキャリアもない。
 理系といってもねえ……、と依子は、自分より身長が二十センチ近く高いモデルを見ながら思った。数学や物理と違って化学系は比較的女性が多く、研究室も華やかだ。
 そんな中で、依子はほかの女性たちに申し訳ないぐらい、世間一般のイメージどおりの「理系の女性」だった。
 今日は、メイクはしてもらえるということで、いつもと同じ基礎化粧とアイブローのみ。服は買うかどうか悩みに悩み、結局、香水の発表会で着る黒いテーラードジャケットと膝丈のフレアスカート、襟の開いた白いブラウスにした。
 ポケットが多くて使い勝手のいいショルダーバッグは、一万円。靴は、足の形が悪いため決まったブランドしか履くことができず、季節も場所も選ばない黒のパンプス。
 自分を一言で表現するなら、「地味」。
 依子がいるのは一流ホテルのコネクティングルームで、背後に扉があり、取材をするのはそちらの部屋だ。開いた扉の向こうから明るい照明がこぼれ、何人かの声がしきりと聞こえる。さきほど、三十代半ばとおぼしき女性編集者が、取材内容の確認に来た。
 編集者は「必ずしも予定どおりに進むわけではありませんので」と言ったあとモデルのところに行き、彼女にはなんだかいろいろ説明した。
 依子は、隣のいすに置いたショルダーバッグから企画書の入ったクリアファイルを取り出した。テーマは、「働く女性のフレグランス~わたしだけの香り~」。
 香水好きのトップモデルが香水と自分の人生観について語ったあと、依子が香りを創る側としてインタビューを受けるというものだ。対談ではないのが、唯一の救いだった。あんな美人と共通する話題が、自分にあるとは思えない。第一、自分は「香水を創っている」のではなく、「香料を開発している」のだから。
 企画書には、詳しい内容やコンセプト、担当者、タイムテーブルのあとに簡単な質問事項がついていた。どうしてこの仕事を選んだのか。やりがいを感じるときは。女性ならではの視点。挫折しそうになったこと。調香師にもっとも必要なものはなにか。
 この仕事を選んだのは、有機化学を生かすことができて、かつ、研究部門のある会社に片っ端からアプローチをし、唯一採用されたのがこの香料会社だったから。
 去年までは香りをひたすらおぼえ、イミテーションを作り、足りない材料の発注や上司のレシピにあわせて原料を調合していた、今年になってやっと香料の開発に携わるようになり、やりがいを感じるほどの仕事はまだしていない。
 女性ならではの視点を感じたことはない。
 いますでに挫折しかかっている。
 調香師にもっとも必要なものは……。
 依子は顔をあげ、モデルたちに目を向けた。フェイスメイクをおえた男性がモデルの後ろにまわってヘアメイクに移ると、モデルの横顔が見えた。
 さすがはプロだ。いろんな色を重ねられたはずなのにすべてがとけあい、ややきつい印象を与えるエキゾチックな顔立ちにフェミニンな柔らかさが加えられている。
 口紅は、依子だったら決して似合わないモカベージュ。地味な依子があんな色をつけたら、よけい地味になってしまうが、はっきりとした目鼻立ちと大きめの唇にはちょうどいい。
 編集者がやってきて、モデルのメイクをチェックしたあと、彼女とともに背後の部屋に消え、男性もメイク道具を持って彼女たちについていった。広い室内に一人で取り残されると、今度は別の緊張と居心地の悪さがやってきた。
 部屋には、すでにいろんなにおいが充満している。室内を飾るシプレーノートのオードトワレ、背後の部屋にいるスタッフの体臭、編集者がつけていた有名ブランドの名香、芳香剤、ヘアケア用品、目の前に置かれたコーヒーから漂う2‐フリルメタンチオール。緊張すればするほど部屋中のにおいが気になっていく。ベルガモット、ゼラニウム、ゲラニルニトリル、4‐メチル‐3‐デセン‐5‐オール、C10H16……。

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