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ブルーライン[満員電車で逢いましょう]

書き下ろしを加えて文庫化決定! 満員電車で逢いましょう

岡野苑子

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【お試し読み】満員電車で逢いましょう

     ◇◇◇

 安眠のために去年購入した遮光カーテンの威力は絶大で、おかげで俺はスマホのアラーム音を最大値に設定しておかないと目覚めることができなくなった。まあ寝起きが悪いのは子供の頃からだけど。
 低血圧が治らないんだ。アラームを止めてからの数分間が特にきつくて地獄のよう。不規則な生活が祟ったのか社会人になってからは特にひどくなった。幸い仕事をするのは好きだから、寝起きさえスムーズになれば人生最高で文句なしといったところ。いや嘘だわ。仕事好きだけどめっちゃつらいわ。昼まで寝てたいわ。平日爆発してくんねーかな。
 時間を掛けてベッドから起きだし、目覚めるためのシャワーを浴びて、手早く身支度を整える。「乾くのが早いから楽」という色気のない理由で短くした黒髪は、ワックスで適当に混ぜるだけで格好がつくので意外と便利だ。ネクタイを締め、スーツに袖を通し、鞄を携えて玄関を出ればあら不思議、素敵な寝不足サラリーマンの出来上がりである。
 高野英臣、二十七歳。会社員生活を送ること五年。
 働く歯車は今日も元気に悲鳴を上げつつ稼働中。

     ◇◇◇

 ちなみに朝の地獄は、何も起き抜けの瞬間だけじゃない。
 住宅街を進み、閑散とした繁華街を抜けて、駅前に着く頃には辺り一面の人、人、人! 改札を抜ければその数はさらに膨れあがり、駅のホームは乗客で溢れんばかりの大混雑。すでにこの段階で己の低血圧も相まって卒倒しそうだというのに、これでもかと人間を詰めこまれた満員電車にこれから乗りこもうっていうんだから俺はマゾか何かか。拷問にも程がある。
 でもこの通勤快速に乗らないと俺は会社にも行けないし、会社に行けないということはお賃金が貰えないということで、お賃金が貰えないと家賃も光熱費も食費も払えず、さらには動画配信サイトの月額九百八十八円も当然支払えなくなり、大好きな海外ドラマを視聴できなくなることを意味するわけで、つまり俺に選択肢はない。
 と、自ら言い聞かせて毎朝乗っている。
 ホームでの整列乗車に参加している。
 気分はさながら死刑囚。
 というわけで今日も、いつも通りの時刻の電車、いつもの車両、いつものドアの前に俺は立っていた。去年設置された飛びこみ防止用のホームドアが開き、続けてすぐ車両の扉も開く。毎度のことながら誰ひとりとして降りてこない光景に目眩がした。すでにこれだけ人間が乗っているのに、これからさらに乗りこむんだぞ? 降りる頃には体の形が変わっちまうよ。
 と、うんざりしながら俺が乗車したら、後続する乗客によってさらに奥へと押しこまれた。いや~無理むり、無理だって、これ以上入んないって。なんて絶対俺以外にも思ったやつはいるのに、なんの不平不満の声を上げることもなく、ただただ人の波を受け入れる訓練された会社の家畜たち。涙ぐましいね。
 圧迫されすぎて息苦しささえ俺が感じたところで、満員電車の扉は静かに閉じ、動きだした。
 楽しい楽しい都会のランデヴー。
 神奈川県出身の俺が東京を走る電車に乗るようになったのは、遡ること大学一年生の時のことである。あの頃から俺は満員電車が嫌で嫌で仕方なかったのだが、幸い乗りこむのが始発駅だったおかげで楽に着席でき、その当時はさほど苦には感じていなかった。嫌だったけど。一限落としまくったし。それから経つこと早九年。──九年。
 九年!? まじで?
 小学校のガキが大学生になる長さだぞ。
 一気に自分が老けこんだ気がして、人と人の生ぬるい体温でサンドイッチにされながら絶望的な気分に陥る。九年。そりゃそうだ。大学入学した時、俺はまだ十代だったんだから。おええぇ、おっさんじゃん俺もう死にたい。寝る間も惜しんで社畜してる場合じゃない。大体、支払限度額を超えてまで残業したところで、独身趣味なし恋人なし、たまの休日も疲れ果てて十四時間も寝ているような俺が、いつどこでなんのために貯金を切り崩して使う可能性があるというんだ。過労の末の入院費くらいしかとっさに思い浮かばなくて悲しい。
 求人採用の大手コンサルに、新卒で勤め始めて五年。
 一日に数十の案件を捌きつつ、毎日終電まで残業するのは体力的にも厳しいけど、自分の力を試しているみたいで楽しかったし、充実感もあった。週末はいつも同じチームの仲間と飲みに行って、時々先輩の仕事が終わらなかったりするから、そういう時は後輩総出で手伝ってなんとか終わらせてから、始発まで飲んだりしてさ。きついけど楽しかった。
 でもある時から、ひとり、またひとりと気の合う先輩や同期が辞めていって、気づけば俺だけが会社に取り残された。最初はまったく理解できなかった。こんなに楽しいのになんでみんな辞めちゃうんだって。もちろんつらいことだって山ほどあるけど、それでも仲間と一緒なら楽しさの方が勝ってなんでもできた。いくらだって働けた。俺の場合は。こうしてひとりぼっちになって初めて理解したんだ。彼らがどうして辞めたのかを。
 ああ、みんな、自分にとっての大事なものを失ってしまったから、苦しくなって辞めるんだって。
 みんないなくなってようやく気づいた。
 気づいた途端、過労気味に働くのが無理になった。昔と違って今の会社の雰囲気は、根詰めて仕事するには俺にとっての対価が足りない。ご褒美が少ない。だったらいっそ給料は下がってもいいから、もっと楽で人間味の保てる会社に移ろうか。生きるためだけに割り切って仕事をしようか。中途採用やってる俺が転職先探すとかギャグだな。
 急に吐き気を感じた。
 二日酔いにも似た過度な胸焼けと、息苦しさ。ここになってようやく、自分が額の生え際いっぱいに脂汗を浮かべていることに気づく。気持ち悪い。やばい。電車酔いか。寝てないし朝飯も食ってないから。
 車内の空気が生ぬるくて、うまく呼吸できない。なるほど気分の悪さはこれが原因か? 己の呼吸器官の不調を自覚したところで頭上に視線をやったら、いつもは稼働しているはずの空調機がなぜか今日はしっかりと停止していた。ふざけんな車掌一発くれてやろうか。
 具合の悪さを意識した途端もう駄目だった。目眩がして、体温がどんどん下がっていくのを感じる。さっきから息は吸えるのにうまく吐きだせない。元々喘息持ちなんだ俺は。これでも小学校の頃はよく入退院を繰り返していた。だから体育の授業は決まって見学で、それを同級生から馬鹿にされるのが嫌で嫌で勉強だけは頑張ったんだ。
 塾行って、進学校行って、いい大学を出て、いい会社に就職した。
 ロードマップ通りに人生送ってるはずなのに。
 いつからこんなに楽しくなくなったんだっけ。
 あまりに気分が悪すぎて「俺このまま安らかに召されるんじゃ……」などと思いつつ、車内の電光掲示板で現在地を確認する。通勤快速で飛ばす六駅分を絶賛走行中、ちょうど二駅目を過ぎたところで、停まるのはまだ当分先だ。ここで吐いたりしたらパニックだぞ。阿鼻叫喚のバイオハザード。どうなるのかちょっと見物だけど。アホなこと考えてる場合か。
 指に力が入らなくて、持っていた通勤鞄を取り落とす。でも車内には屈んで拾えるほどの隙間はない。鞄のチャックをしっかり閉めといて良かった。中身が散乱でもしたら目も当てられない。
 ああ、もう限界だ。

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