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ブルーライン[楽園]

表紙&口絵イラストつきで電子書籍化! 楽園 ~パラダイス・ブルー~

粟津原栗子

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【お試し読み】楽園 ~パラダイス・ブルー~

 いま自分は楽園の日々を過ごしている、と高坂滋樹(こうさかしげき)は思う。仕事があって、めしが食える。帰る家があり、そこには日野夏人(ひのなつひと)がいる。
 少し前までは、ひとりで生きていくことがまっとうで正直だと思っていた。裏表のない日々、心配も災難もストレスもひとり分で済む。愛してしまえばふたり分だ。喜びも悲しみも分かちあい――そういうのは自分にはいらない。求めたことはなかった。求められれば拒絶してきた。
 いまは日野のいない日々を考えられない。この生活が死ぬまで続くものだと、信じ切ってしまっている。日野は高坂の傍にいるし、高坂が絶対に日野を離さない。もう、それ以外の人生が思いつかない。


一 出会い(十一年前)

 姉の尚子(なおこ)が「また本を読んでる」と呟いた。てっきり自分のことかと思い顔を上げたが、尚子が見ていた方向は高坂の座っているカウンターではなかった。壁際の、ふたり掛けのテーブルにひとり青年が席を取っている。窓際と違い景色がなにも見えない、人気のない席だ。尚子の顔はそこに向けられている。
 尚子の働いているこの洋食屋に、よく来る。肉が食べたくなると来ることにしていて、その時には必ず本も持ち込む。シックな色合いの落ち着いた雰囲気の店内で、本を読むには少々薄暗いが、各テーブルには電気ランプが灯っており、この厚ぼったいガラスシェードの下で本を読む時間を、高坂は気に入っている。料理の値が少々張るおかげで客の年齢層も上がり、ワインと料理と読書を静かに楽しめていい。
 つられて移していた目線を戻すと、カウンターの中にいる尚子と目が合った。
「最近、よく来るのよ。肉料理の中から一品だけ頼んで、あとはずっと本を読んでる」
「いい客じゃないか」
「あなたがふたりいるみたいで、間違えそうになるのよ」
「男がひとりでめし食いながら本を読んでるだけだろ」
「なんか、雰囲気が。つい『シゲちゃんいつものでいいのよね?』なんて、訊きそうになる」
 指摘されて今度はまじまじと青年の方を向いた。黒っぽい今夜の服装は確かに似ていた。暗がりに融けそうなほど静かな存在感、白い顔だけが浮いて見える。年齢はよく分からないが、現在二十七歳の高坂と同年代か少し下ぐらいだろうか。落ち着いている。
 高坂よりは大柄で長身だ。見ているのに、一向にこちらに気付かない。本に目を落とし、徹底的に気配を消している。
 尚子が「ね、言ってること分かるでしょ」と言った。高坂は視線を戻し、「雰囲気だけな」と姉に笑う。
「髪型と服装と、本、っていうアイテムだけさ」
「男が好きな男だったりしてね」
「ばかなこと言っていないで仕事しろよ。あっちの客、見てるぞ」
「あらいやだ」
 お伺いします、と尚子は笑顔をつくり、客の元へ向かった。話題が切れてほっとする。同性愛者であることを尚子は別に咎めたりはしていないが、こんな話題は姉弟で深く話したくもない。特にいまは食事中だ。皿に残った鶏肉をフォークで刺し、ソースを拭いとるようにすくって口に運ぶ。
 尚子と高坂は姉弟揃って似たような職業に就いている。尚子はこのレストランに給仕として勤めており、高坂はKホテルのバーでバーテンダーとして働いている。歳が近く、職場間の距離も近いので、わりと頻繁に連絡を取りあう。仕事の苦労話も同業者ならばしやすい。
 高坂が本を読むのは、放っておいてください、のサインだ。仕事ではいやというほど人の動向に目をやり、気を配る。ひとりの時間ぐらいはよそに目を向けたくない。活字を追っているとその世界に没頭出来るのがいい。いま読んでいるのはミステリーだ。最近、この分野が面白いと思うようになり、頻繁に図書館へ行くようになった。
 これが職場だったらどの席にどういう客が来ているか把握しておくものだが、特にここでは、それをしないと決めている。尚子に言われるまで青年の存在には気付かなかった。
 指摘されると気になるものだ。闇に白く浮かんだ顔をもう一度見たいような気がして、さりげなく振り返る。青年は立ちあがり、上着を着ている最中だった。これまた闇と同化するように暗い色のブルゾン。帰るようだ。テーブルには一冊だけ本が乗っている。タイトルは見えないが、厚い。
 長い身体をしなやかに動かして、レジへ向かう。黒服の中にある白い身体を想像した。尚子の声が耳に残っている。「男が好きな男だったりして」
 困った。尚子がそんなことを言うから、そう意識してしまう。青年が高坂に気付かずに店を去ってくれたのが良かったのか悪かったのか。本気で、身体が肌を恋しがった。
 高坂に恋人がいたのはニ年前の話で、「もういいや」と別れてからは誰もいない。一晩だけの相手ならひとりふたりあてがあるが、今夜これから誘いにかけるのは億劫だ。そうしても飢えが満たされるわけではないのに、高坂はため息をついた。

 青年はその後二度、尚子の店で見かけた。声はかけなかった。青年が高坂に気付いている様子はなかった。
 三度目は図書館で出くわした。市立図書館の本館。三月の蔵書点検と共に、本の配置が多少変わった。目的の本を見つけられず、森のような館内をずいぶんと歩き回った。青年は、二階の奥にある閲覧席で本を広げていた。これまた尚子の店の壁際の席のような、意識しなければ気付かない席にいた。
 存在感はまるで違った。
 真っ青な薄手のセーターを着ていた。その青に、目が覚めた。グレートーンの館内で、強制的に視覚を引き寄せられる。ただ闇に融けそうだった輪郭に色が付き、俄然鮮やかになる。白黒写真でしか見たことのなかった風景を目の当たりにしたような。身体は生き生きと若く、春の芽吹きみたいだった。
 本の他にノートとペンケースがテーブルに乗っている。足元にはショルダーバッグやデニムの上着が置いてある。
 高坂の気配に青年が顔を上げた。「あ」と低く掠れた声で言った。
「――」
「――」
 言ったきり、青年は喋らない。しばらくの沈黙の後、「思い出したカウンターの人だ」と額をかきながら呟いた。
「――すみません、どこで見たのか詳しく思い出せなくて。いつもカウンターで本読みながらめし食ってる人、ですよね」
「話したことがあったわけではないのに、よく覚えていたね」
「座りますか、ここ」
 そう言って向かいの席を指し示す。高坂は別に本を読みに来たわけではなく、目的の本を借りたらすぐに帰るつもりだった。しかし断るのも気が引けて、向かいに腰掛けた。
 高坂が席に着いても、青年は気に留める様子もなく作業を続ける。広げた資料を見、辞書を引き、ノートに書き写していく。内容が気になって、少し身を乗り出して中を覗き込む。横文字は、どう読んでも英語ではなかった。
 顔を上げないまま、「四月になればすぐにテストなんです」と青年が言った。
「英語も苦手なのにフランス語なんか習っても、覚えられない」
「――いや、ごめん。俺のことは気にしないで」
 学生だったことに驚いていた。銀色のシャープペンシルを滑らせる指を、じっと眺める。角張った上下に長い字から、慣れない外国語に苦労しているのが分かる。青年の姿そのものにも思えた。
 いくつだろう。前髪で隠れる目元や、白く張った頬を見て思う。首筋、青いニットとその下にあるはずの胸板。静かで深い呼吸は、体力を漲らせている。

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