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ブルーライン[青を抱く]

WEB掲載分に書き下ろし&藤たまき先生のイラストを加えて文庫化決定! 青を抱く

一穂ミチ

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【お試し読み】青を抱く

「おはよう、靖野(しずの)」



 夕食をすませてから母親に「ちょっと飲んでくる」と告げた。
「また『西海岸(にしかいがん)』?」
「うん。そんなに遅くならないと思うけど、何かあったら電話して」
「遅くなったっていいのよ」
 母は苦笑した。
「もうすぐ桜の時期だし、どこかに行ってきたら?」
「ああ、そういえば来週ぐらい、一回会社に顔出さなきゃ」
「ついでに旅行してくればいいじゃない」
「そんな勝手できないよ。在宅勤務って、好きにしていいって意味じゃないんだから」
「でも……」
「もともと旅行とかめんどくさいタイプなの知ってるだろ。じゃ、行ってきます」
 会話を振り切るように家を出て歩いた。春先の夜はまだしんと底冷えがして、住宅街まで間を置いては繰り返し伸びてくる波の音だけでも耳やつま先がつめたくなる。夜のほうが、遠くまで音が届くのはどうしてだったっけ。忘れた。靖野に聞いたことかもしれないのに、と考えるだけで手足の筋肉がきゅっと縮んだ。それが本当かどうかは分からないのに――もう分からないから、靖野についてすこしでもミスや取りこぼし(と思われるもの)を見出すと、泉は落ち着かなくなる。提出物を忘れたのを言い出せないまま授業に臨む子どものような気持ちだ。でも子どもなら先生が叱って、そして終わりにしてくれる。
 ふう、と息を吐き出す。もう白くならない。きっとすぐに春が来て、夏が来る。じっとベッドの傍についている一日は長いのに、積み重なった時間を振り返ると怖いほどあっという間だった。
 母の気遣いは分かる。でもやきもきしながらここを離れているのはここから動かないよりつらい。たまたま旅行なんか行ってる時に「何か」あったらどうしてくれる、と思う。むしろ、旅行に行ったがために「悪い何か」が起こりそうな気さえしてくるのだった。水の中に湧き出す墨汁みたいにもやもやした危惧は合理性がないうえに精神衛生上よくないから、この先の店で何を最初に飲もうか、というごくささやかな楽しみに集中した。深みにはまり出せばきりがないもの思いの方向を逸らすのはだいぶうまくなった、というかそうしないと保たない。自分を落ち込ませるのも浮上させるのも自分だけだ。
 家から徒歩二十分、四階建てマンションの一階にある店の灯りがほんのりと洩れている。一枚板の扉に潜水艦みたいな丸窓が取り付けてあるせいだ。流木を拾ってこしらえたという無骨な取っ手を横に引き「こんばんは」と声をかける。
「ああ、こんばんは」
 気心の知れた間柄のマスターが気さくな笑顔を向け、同様に打ち解けているほかの常連客も軽く手を挙げて応える。なじみの店の、分かりきって安心する光景、のはずだった。
「あっ」
 カウンターのいちばん奥に座っていた男がひょいと顔を覗かせ、声を上げるまでは。
「また会えた」


続きは2015年6月15日発売フルール文庫ブルーライン「青を抱く」でお楽しみください。

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