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ブルーライン[恋獄の椿姫]

WEB掲載分に書き下ろし&高崎ぼすこ先生のイラストを加えて文庫化決定! 恋獄の椿姫

葵居ゆゆ

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【お試し読み】恋獄の椿姫

 剥き出しの肌に、無遠慮な視線が突き刺さるようだった。カウンターの縁を握った翡翠(ひすい)の腕は鳥肌が立っている。
 緊張からか、羞恥からか、空気の冷たさのせいか――浅い息遣いに上下する胸の上で、乳首はきつく尖っていた。薔薇色ね、と評す女の声を思い出して背けた目の前に、銀色のトレイが置かれた。
 そこに、バーテンダーが洋杯を二つ載せる。華奢なかたちの洋杯には透明な紅色の酒が、切り子細工の四角い洋杯には氷と琥珀色の酒が、注文どおり縁いっぱいまで注(そそ)がれ、少しでもバランスを崩せば零してしまいそうだった。零せばまたやり直しだ。
 屈辱と羞恥で震えそうな手でトレイを握りしめて、裸足で踏み出す。どこかから「いい尻だ」と言う声が聞こえて、きゅっと尻が強張ってしまう。
 肌寒い店内で、なにもまとわず裸で給仕をさせられている自分を、占領軍の男たちが眺めている。
(……恥ずかしい)
 かたかたと、トレイの上で洋杯が揺れた。翡翠が歯を食いしばって歩を進めると、脇のテーブルで脚を投げ出した男たちの一人が「洩らすなよ」と笑った。揺れる性器を指差され、そこがきりきりと痛んで、思わず足をとめそうになる。
「泣きそうな顔だな。気が強そうなのに」
「そりゃ恥ずかしいだろう。全裸のうえに、勃ってるんだ」
「ご主人様に叱られたら、俺たちが慰めてやるよ」
 どっと笑い声が沸き、翡翠は逃げるように身体を前に押し出した。奥のドアがひどく遠く思える。腕は強張って、今にも酒が零れそうだ。
 焼けたように熱い身体が、自分のものではない気がした。こんなはずはなかった。恥ずかしくて逃げたいのに――こんな、まるで感じているような反応をしてしまうなんて。
 いくつも飛ぶ野次を浴びながらどうにか扉までたどり着き、翡翠は「持ってきました」と嗄れた声を上げた。
 どんなに惨めな思いをしても、負けたくない、屈したくない。弟だけは守りたい。
 その思いだけに支えられて立つ翡翠の前でドアが開き、奥に座る男が見えた。
 黒い軍服に黒い髪、冷たい瞳と白い肌をした、悪魔のように美しい男が。

   † † †

『世界の東端』と呼ばれる耶斑(やはん)が、長い歴史を持つが傾きかけた大陸の中北部にあるジャルムと同盟し、他の国々相手に戦争を起こしたのは三年近く前だ。
 二年半ほど続いた戦争は、耶斑をどん底に突き落とした。
 内装だけ大陸の西の国々――アルビオンやイリヤを模したこの酒場に集うのは、敗戦から半年経った今でも、大挙して乗り込んできたアルビオンをはじめとする連合軍の軍人たちではなく、彼らに取り入って甘い汁を吸おうというこの国の人間ばかりだ。
 一段高くなった舞台の端におかれたピアノの脇、西諸国風のドレスの裾をひきずって、翡翠はついと顎を上げた。
 瓦斯(がす)灯の仄暗い暖色のもとでは落ち着いた風合いに見えないこともない壁は、よく見れば塗装が剥げ、テーブルは傷がついて不揃いで、長椅子の目立たない場所は革が破けている。ちぐはぐで見せかけだけのこの場所が、ちょうど今の耶斑そのものだ、と翡翠は思う。なんとか西諸国に追いつこうと焦り、勝てるわけもない戦争をはじめ、負けて、先の見えない不安の中でくすぶっている。
 小柄な耶斑の男たちにズボンやシャツの洋装は似合わないのに、酒場の男たちの半分はそれを身にまとっていた。出される酒も葡萄酒や麦酒で、俺は米酒のほうが好きだよと思いながら翡翠もいつも葡萄酒を飲む。
 この半端でうら寂しい場所で、だが一番醜悪なのは自分だと、翡翠は弁えていた。無力で不格好な負け犬だ。店主の要望とはいえ、男のくせに亜麻色の髪には白い椿を飾り、女物のずるりと長いドレスをまとっている。
「俺のほうはいつでもいいよ。翡翠は?」
 ピアノの前に座った理央(りお)が気遣わしげに訊いた。穏やかに整った顔立ちの彼は、舞台用に古びたタキシードを着ている。うん、と頷いて翡翠はひとつ深呼吸した。理央の弾くピアノの音が、濁った空気を割るように響く。一曲目はいつも、アルビオンで人気だというゆったりした旋律の曲だ。
<日曜日は嫌い、明日になれば愛しい人が、妻の待つ家に帰ってしまうから……>
 暗い歌詞だ。でも旋律は好きだった。西の音楽はどれも綺麗だ。翡翠がうたい出すと、舞台近くの酔客たちが数人、目を向けてくる。
 胸元の大きく開いた赤いドレスを着た翡翠に、彼らは一瞬目を瞠る。象牙色の肌に耶斑人にしては高い身長、猫のようにきつい目が印象的な翡翠の顔立ちは、甘さはないが美しい。
 美しいものの女性には見えない翡翠が女の格好をしていることに、客たちはたいていすぐに失笑し、それから少しだけ歌声に耳を傾ける。隣の客と囁き交わす男もいる。場末の酒場じゃうたうのも男か。でもいい声じゃないか。だが見ろ、あんな女みたいな格好で、どうせ連合軍の御用達のバーじゃ相手にされないんだろうよ。気取って歌なんかうたわないで、男娼にでもなれば少しは相手にされるだろうにな。
<愚かな恋と笑えばいいの、私には週末だけがあればいい>
 あだっぽく語尾を掠れさせてうたいながら、翡翠は笑い声も声援も野次も等しく気にしない。気にしたって実入りが増えるわけではないからだ。翡翠を知らずに入ってくる客も多いが、翡翠の歌声が好きだと言う常連客もそれなりにいて、酒場の主は翡翠がうたうのを歓迎してくれていた。
(それにしても、今日は初めての顔ぶれが多いな)
 洋装、耶装を_問わず、大陸かぶれの酒場に来るのは、敗戦国の耶斑にあってたくましく順応している商人が多い。だが今日舞台の一番近くにいるのは、どことなく汚れた服を着た、見たことのない集団だった。彼らはやがて翡翠に興味をなくし、顔をつきあわせて話し込みはじめた。最近増えているという抵抗団の人間だろうか。辛気くさい話ならよそでやれよと思いながら、翡翠はいつものように五曲うたって下がった。
 控え室まで、理央がついてきた。
「お疲れさま翡翠。これ、よかったら藍佳(らんか)くんに持って帰って」
「なに?」
「焼き菓子だよ、表通りの桃輪堂(とうりんどう)の。あそこの旦那がくれてね」
「桃輪堂の焼き菓子! ありがと、藍佳が喜ぶ」
 紙の包みを受け取って翡翠は目を輝かせた。弟の藍佳は甘いものに目がないのだ。理央は照れたように頭をかきながら、喜んでもらえてよかった、と言った。
「藍佳くんのことは俺も気になってるんだけど、ここのところ忙しくて様子を見にいけなかったから。元気にしてる?」
「なんとか風邪ひかずに頑張ってるよ。忙しいっておまえ、ピアノ弾き以外になにかはじめたのか?」
 鏡の前に置かれた水差しから水を飲み、翡翠は髪を整え直す。鏡越しに理央を見ると、彼は曖昧に笑った。
「うん、まあね」
「犯罪だけはやめとけよ。理央、危なっかしいんだからさ」
「翡翠にお説教される日が来るとは思わなかったな。小学校の頃は悪戯(いたずら)ばっかりしてたの翡翠のほうだろ」
「いつの話してんだ」
 怒ったふりをして睨んだが、理央の優しげな顔を見るとつい笑みが零れた。理央は幼なじみで、今住んでいる部屋も、この仕事も、彼が世話してくれたのだ。
 気だてがよく真面目で誠実な理央が、異国人に占領されてなにもできずにいる現状を苦々しく思っているのは、翡翠もよく知っていた。知っているから、心配にもなる。

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